北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  


Ⅱ.東本庄と小浜を結ぶ道

<次に、本庄総合公園のシルクドーム付近にあったと思われる身馴川渡河点と、神川町小浜の神流川渡河点を結ぶ道をたどってみることにします>


『歴史の道調査報告書』において、「榛沢の集落南端で、榛沢成清の勧請伝説を持つ大寄八幡の東側を通り、そこから大きく西方にカーブして小山川(身馴川)を渡り、本庄市北堀から西富田を経て上里町七本木辺りに出て藤岡方面に向ったと伝承される」古道についての言及があることは「Ⅰ.西五十子と小浜を結ぶ道」で触れたが、大寄八幡の東側を通ってから西方にカーブする道ということでは、大寄八幡を過ぎた後、東本庄稲荷神社方面に向かう、こちらのルートのほうがよりふさわしいと言えるのかもしれない。

【以下の画像については、画像を右クリックしてプルダウンメニューから「画像だけを表示」を選択すると、拡大することができます】

◆東本庄稲荷神社

身馴川左岸の渡河点とおぼしき所には現在、シルクドームが建っているが、そのシルクドームの西北50mほどの地点に鎮座する神社である。

 『本庄市史』は、この東本庄稲荷神社の周辺に、五十子の陣が設営された頃の本庄氏の館が存在したと推定している(※1)。

 東本庄稲荷神社から先の道筋については、二つの道筋があったように思われる。一つは西北の本田館の方向へ向かう道であり、もう一つは栗崎館推定地(※2)の南側を通る道を経て宥勝寺東方へと至る道である。

 

※1 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅱ』 1989 pp.19-24参照
※2 本庄市史編集室編 『本庄市史通史編Ⅰ』 1986 pp.650-53参照

◆若泉稲荷神社

若泉稲荷神社の現況写真である。

 社前に掲げられた説明板によると、若泉稲荷神社は、本庄氏滅亡後、本庄城主となった小笠原信嶺が天正18年(1590)に東本庄の稲荷神社を当地に奉遷したものであるという。したがって、この若泉稲荷神社自体は中世の古道とは直接関係はないが、神社の北東方向に位置する堀の内と呼ばれる一画が本田館跡と推定されている(※)。また、明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、この若泉稲荷神社の西側から北西の新田原方向に延びる小道を確認することができる。

 恣意的な推測であるとお叱りを受けそうではあるが、この道は、現在、北泉小学校の校庭となっている地点を通り抜けた後、“Ⅰ.西五十子と小浜を結ぶ道”で既に触れた、庚申塔群の残る現在の新田原集落センター前付近で、西五十子から西北西に延びてくる古道と合流していたように思われる。

※ 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 p.653-57参照

   

《新田原集落センターより先の道筋については、“Ⅰ.西五十子と小浜を結ぶ道”と同じ道筋であると思われるので省略します》

◆栗崎の金鑽神社

東本庄稲荷神社付近から栗崎館推定地の南側を経て宥勝寺東方へと至る道は宥勝寺の東側で二つに分かれていたように思われる。

 一つは北に進んで栗崎金鑽神社を過ぎた後、左折して浅見山丘陵(大久保山丘陵)に入り下浅見の成就院の南方へと向かう道であり、もう一つは南に向かって塚本山丘陵に分け入り美里町の下児玉へと至る道である。
 《Ⅱ.東本庄と小浜を結ぶ道》では、この二つの道筋のうち、前者の浅見山丘陵を経て成就院の南方に抜ける道の経路とその行方を追跡することにする。(後者の塚本山丘陵から下児玉へと至る道の経路とその行方については、《Ⅲ.栗崎と小浜を結ぶ道》で取り扱うことにしたい。)

 栗崎館は庄氏の本宗家が築いた館と推定されており、また栗崎の金鑽神社は、一の谷の合戦で平重衡を生け捕りにした庄家長が奉斎した神社であると伝えられている(※)。

 明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、栗崎金鑽神社の社前から宥勝寺の西側を通って下浅見八幡神社の北、成就院の南に通じる道を確認することができる。この道は、中世からの古道であったのではあるまいか。

※ 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 p.652、702-03参照  

◆成就院前の庚申塔群


成就院の門前に並ぶ庚申塔である。昭和に入ってから建てられた2基を含めて、合計24基の庚申塔が確認できる。

 中治夫氏編著の『武州風土記』によると、これらの供養塔は下浅見の道端にあったものを集めたもの(※)ということであるから、これらの石造物をもって古道の経路を探る手がかりとするのは問題があるかもしれない。しかし、明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見るかぎりでは、成就院の門前が、栗崎から浅見山丘陵を越えてくる道、下児玉の楊林寺の脇を北上してくる道、十条熊谷の蓮生堂の東側を通って北に延びてくる道などの結節点となっているので、交通の要衝であるこの場所にもともと据えられていた庚申塔もいくつか含まれているように思われるのである。

 因みに八幡山成就院は近世になってから建立された真言宗智山派の寺院で、栗崎にある西光山宥勝寺の末寺である。

※ 中 治夫編著 『武州風土記』 1996 若草同人会(非売品) pp.72-73、中 英夫 『武州下浅見誌』 1985 中英夫著書刊行会(非売品) p.125参照

◆蛭河氏館跡推定地の一角に建つ能淵寺


 国道462号線蛭川交差点付近の小字名は「東郭」と呼ばれ、ここに児玉党蛭河氏の館が存在したと推定されている。埼玉県立浦和第一女子高校郷土研究部が1981年に実施した地籍図と現地の調査によると、南北70m・東西65mほどの内堀と、内堀の東側と南側に外堀が確認でき、南側の外堀は120mほどの長さをもつという。

 この調査報告書で注目されるのは、この南側の外堀のライン上にある道路が“鎌倉街道”であるとする伝承を紹介していることである。この道を東側にたどると、まさに下浅見の成就院の前に通じることを考えれば、中世において現在の成就院の南側を通って蛭河氏館に至る古道が存在していたと考えてよいのではあるまいか。

 写真の能淵寺は内堀の西側に立地しており、同調査では山門に向かう50mほどの参道は西側の外堀の跡ではないかと推定している(※)。

 蛭河氏館推定地の南側を通る古道は、「東郭」の女堀を隔てた西側にある「中郭」「西郭」を経て下真下の小字「石橋」の方向に向かっていたように思われる。

※ 埼玉県立浦和第一女子高校郷土研究部 『中世武蔵武士館跡の研究Ⅱ-児玉党阿佐美氏館について-』 1981 参照 (同調査報告については、児玉町史史料調査報告中世一 『児玉党阿佐美氏館について』 (児玉町史編纂委員会) としても刊行されていますので、こちらのほうが閲覧しやすいかもしれません)

◆下真下の馬頭観音堂と坂本家墓地


旧児玉町下真下の小字「石橋」の西に位置する「平塚」に建つ観音堂である。田島三郎氏が『児玉の民話と伝説』で紹介している伝承によると、壇の浦の戦いで斃れた愛馬のたてがみを真下太郎が持ち帰り、馬頭観音として祀ったものであるという(※1)。

 真下氏については、治承4年(1180)8月の石橋山合戦に参加した後、京都に逃れ篠原合戦で討ち死にした武士として真下四郎重直の名が『平家物語』に見える(※2)。重直が長井斎藤別当実盛などとともに平氏方として登場していることを考えると、真下氏は児玉党のなかで庄氏一族に対して一定の独立性を保持していた可能性もあるのではあるまいか。


 左に掲載したのは真下氏の子孫と伝える坂本家の墓地の写真で、観音堂のある下真下共同墓地の南東の一角にある。中央に見えるのが真下左京亮源義政の宝篋印塔で、その右側の墓塔には、薊山合戦で討ち死にし、平塚の地に葬られたとする(※3)真下春行の刻銘が残されている。

 ところで、安土城の築城惣奉行を務めたとされる丹羽長秀は、『寛政重修諸家譜』によると、武蔵国児玉党の後胤であるとされている(※4)。この記述を裏付ける傍証の一つと考えることができるのではないかと思われるが、長秀の生地とされる尾張国児玉にあたる、現在の名古屋市西区児玉には「丹羽長秀邸址」の碑も残されているようである(管理人はまだ訪れたことがない)。このように武蔵国児玉党の後胤であるとされる丹羽氏であるが、児玉党のどの一族の子孫なのか考察したものは現在のところまだないようである。そこで、数ある児玉党の諸氏のなかでどの一族の流れを汲む可能性があるのか、管理人なりの私見を述べてみることにしたい。

 承久の乱の際に、美濃杭瀬川において児玉党を相手に奮戦した山田重忠について、雉岡恵一氏は、「尾張国山田庄の領主と思われ、その地は後に児玉党真下氏の所領となった」(※5)としている。中世の尾張国山田庄の領域については、はっきりしないところがあるものの、現在の名古屋市西区辺りから瀬戸市や長久手市の市域に至るかなり広大な荘園であったようである。その一角に位置する名古屋市西区内の児玉に「丹羽長秀邸址」の碑が残されていること、丹羽氏が武蔵国児玉党の後胤であるとされていること、これらに加え、(「後に」と時期は明示されていないものの)雉岡氏が指摘されているように真下氏が尾張国山田庄を所領として獲得したことが事実であるとすれば、丹羽長秀は武蔵国より西遷して尾張国に所領を得た真下氏の後裔である可能性が高いのではあるまいか。(管理人は、本庄市児玉町下真下坂本英二氏所蔵の真下系図(※6)に見える、「弘忠」の流れを汲む一族の子孫ではないかと考えている)

※1 田島三郎 『児玉の民話と伝説』上巻 1984 第38話「真下の馬頭さま」参照
※2 『平家物語』巻第7「篠原合戦」参照
※3 児玉町史編さん委員会ほか編 『児玉町史』中世資料編 1992 所収の「伝書之事」(同書p.512)参照
※4 『寛政重修諸家譜』巻第699参照
※5 雉岡恵一 「承久の乱と新補地頭」 『神泉村誌』歴史編 2005 p.60参照
※6 『本庄市史』資料編に掲載の系図、または拙著『神流の落日』(北の杜編集工房 2007)所収の付図参照

◆共栄公園と遺跡の説明板


下真下から八日市熊野神社に至る経路については、戦前の陸軍児玉飛行場建設や1984年に完成した児玉工業団地の造成事業によって、中世や近世の古道の形跡が消されてしまっているため、はっきりとしたルートを提示することができない。とは言え、中世の後期には八日市に大きな集落が成立していたようであり、八日市集落成立後の経路であれば、その経路を探ることが可能であるように思われる。そこで、(その当否は別として)明治18年に参謀本部陸地測量部が測量して作成した迅速図などを参考にしながら、管理人なりに下真下から熊野神社前に至るルートについて一つの案を提示してみることにしたい。



 旧児玉町共栄地区の集落の西端に、共栄公園という公園がある。旧児玉郡と賀美郡の郡界沿いに存在する公園である。この公園の周辺では、児玉工業団地の建設にあたって、1980年4月から1984年2月にかけて財団法人埼玉県埋蔵文化調査事業団によって、古井戸遺跡や将監塚遺跡などの発掘調査が行われている。


 公園内に設置されている遺跡の説明板によると、発掘調査の結果、縄文時代中期(紀元前3000年~2000年)の環状住居跡群、古墳時代や奈良・平安時代の集落跡、さらには13世紀から16世紀にかけての2つの館跡や井戸跡などが発見されたということである。縄文時代の環状住居跡群や古墳時代及び奈良・平安時代の集落跡はさておき、鎌倉・室町時代の館跡に注目すれば、遺跡の周辺がこの時期に活躍して文書や記録などにその名を残している真下氏の地盤であったと考えられることから、発見された館跡は真下氏に関係する遺跡とみてよいのではあるまいか。

◆丹荘保育所の北面と南面の道路



明治18年測量の陸地測量部発行二万分の一迅速図「本荘驛」「藤岡町」を見ると、児玉郡西富田村の北方から旧児玉郡と賀美郡の境界上を通って賀美郡の八日市村に延びる道路を確認できる。この道路は、現在の丹荘保育所の北側で右折し西北方向に進み、八日市集落の中ほどで左折し、新里方面に向かっていたようである。八日市集落成立後は、下真下からもこのルートが、八日市熊野神社へ至る道として利用されていたのではあるまいか。






丹荘保育所の南側では、同じく二万分の一迅速図「藤岡町」に掲載されている、上真下村からの道も確認できる。また、八日市熊野神社の旧地と伝えられる小字「今城」(※1)は、この丹荘保育所の南方に所在する(※2)。

※1 熊野神社の境内に掲げられている由緒書きに拠る。
※2 後掲の小字名を写した写真参照。

◆八日市集会所角の道標

旧児玉郡と加美郡の郡界の延長上を西南方向に延びてくる道を現在の丹荘保育所の立地点で右折し元阿保方向に進むと、八日市集落の中ほどにある集会所の角に道標が建っている。
 大正7年10月に丹荘村青年団八日市支部が設置した道標であるが、その北面には「右至 金屋村・青柳村・鬼石町方面」と刻まれている。本庄から西南方向に進んだ後、丹荘保育所の立地する地点で右折し、この集会所の角で左折する道は近世において、本庄と鬼石周辺の地域を結ぶ道として重要な役割を果たしていたようである(※)。

 そしてこの道は、中世においても、身馴川の渡河点と小浜の神流川渡河点を結ぶ道として、この地方の幹線道路の一つであったのではあるまいか。


※ この道は、近世においては、鬼石周辺の地域と本庄宿の外港、山王堂河岸を結ぶ河岸道としての性格をもっていたのではあるまいか。2016年頃、この道沿いを歩きながら古道の調査を進めていたときに、本庄市東今井地区の住民の方から、(八日市から東今井の北辺を掠めて、旧児玉郡と賀美郡の郡境沿いに北東方向に延びる)この道は「れいへいしみち」と呼ばれていたという話を伺ったことがある。「れいへいしみち」と呼ばれていたのであれば、近世においてこの道は、山王堂から利根川対岸の八斗島に渡り日光例幣使街道へと至る道、としても利用されていたように思うのである。

◆八日市集落付近の小字名

左の写真は、『本庄市史』資料編に付図として収められている「九郷用水関係町村全図」のうち、八日市集落の周辺部分を抜粋したものである。これを見ると、八日市集落にあたる部分は、「上屋敷」「中屋敷」「北屋敷」「南屋敷」となっており、これらの小字を併せると全体としてかなりの広がりをもつ。このことは、この辺りに広大な屋敷群の存在していたことを示唆しているのではあるまいか(※)。(中央部に見える赤丸印は管理人が付け加えたもので、八日市熊野神社の現所在地を示す)

※ ①八日市熊野神社は、地内の小字「今城」から遷座されたと伝えられていること ②遷座された八日市熊野神社の西方に、児玉郡有数の規模を誇る中世の城館址「中新里城跡」が存在すること ③城や館の構築にともなって、神社や寺院が移設される例は珍しくないこと などから、(あくまでも管理人個人の推測にすぎないが)八日市集落の建設は、中新里の城館の構築や熊野神社の遷座と一体のものとして進められた可能性があるようにも思われる。

◆八日市熊野神社

八日市熊野神社は,延喜式内社である「今城青八坂稲実神社」の論社に挙げられている(※1)。小字「今城」の地から現在地に遷座されたと言い伝えられている(※2)ことから、素人考えではあるが、この神社が「今城青八坂稲実神社」である可能性は高いように思われる。ちなみに、「今城」は(『本庄市史 資料編』付図の「九郷用水関係町村全図」などをもとに推定すると)現在の丹荘保育所の南方辺りを指す小字名のようである。

 そして、この熊野神社の南側を通る古道は、九郷用水の方向に進んで植竹の小字「猿楽」に残る姫塚の前に通じていたのではあるまいか。


※1 神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.593-94参照
※2 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.367参照

◆姫塚に残る墓塔

【八日市熊野神社より先のルートは「Ⅰ.西五十子と小浜を結ぶ道」と同じ道筋であるが、少しばかり追記したいこともあるので省略せずに掲載することにする】

神川町植竹字猿楽に「姫塚」という古塚があって、その東南麓に残る墓塔である。地元の神川町植竹地区に残る伝承では、永禄年間に八幡山城が北条氏に攻めたてられた際に、城から逃げのびてきて息を引き取ってしまった姫の霊を弔うために建てられた墓碑であるという(※1)が、遺存する五輪塔に残る紀年銘が永禄期とかけ離れた古い年代を示していることなどを考えあわせると、この伝承は永禄期よりももっと古い時代の事件を反映したものである可能性が高いように思われる(※2)。

※1 柳 進編 『県北の伝承と民俗』 1976 p.90参照
※2 詳しくは、拙稿「挫折と転進と ―宝徳・享徳期前後の大石氏の動向を探る―」『歴史研究』第608号 2013 参照

◆中新里城跡に残る東城稲荷



中新里城跡に残る東城稲荷の現況写真である。

 九郷用水右岸の中新里地区に中世の城が存在したことについては、中新里地区に「東城」「北城」「南城」などの小字名が残されているほか、明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1迅速測図「藤岡町」に城跡らしきものが記されていること、『新編武蔵風土記稿』にも砦跡としての記載があることなど、いくつかの傍証がある。東西約300m、南北約240mの城跡で、『神川町誌」では「安保氏館を凌ぎかねない規模を持ち、平地にある城館跡としては児玉郡内でも有数の規模を誇る」としている(※1)。


 宇高良哲氏が紹介した日叙筆『仁王経科註見聞私』奥書に「…而ルニ其年ノ冬ノ時分ヨリ相州ノ館様(氏康)出張ヲモヨヲシテ明ノ年二月ニ武州□□至リ、金鑽山ノ近辺ニ御嶽トテ明誉ノ山城マテ数千騎ヲ卒シテ責入、… 」(※2)というくだりがあるが、虫損(□□)の部分の後の□は、(素人の解釈なので的外れかもしれないが)「里」と読むこともできるように思われる。仮に「里」と解釈できるのであれば、北条氏康の軍勢が金鑽御嶽城を攻めるために集結した「里」という地名が付く地点ということでは、(金鑽御嶽城との距離も考慮して)「新里」という地名がまず浮かぶ。

 また、このくだりの5行後の「河西ノ衆ハ一同ニ相州ニ帰シテ那波ニ合力、」の後には当初、「俄ニ新里ニテ」(※3)という6文字が書かれていた。墨で消去線が引かれたこの6文字を生かして、日叙の当初の文章を復元してみると、この部分は「河西ノ衆ハ一同ニ相州ニ帰シテ那波ニ合力、 俄ニ新里ニテ 上州ノ上杉殿ハ乱行無道故ニ御馬廻リ衆裏懸テ 相州ト一和シテ屋形様ヲ取ノケ奉ル …」というものであったように思われる。とすれば、御嶽攻城戦が行われた天文21年(1552)の時点で、北条氏康は新里に大勢の軍勢を集結させていたと考えてもよいのではないかと思われる。

 管理人は、この中新里の地には、九郷用水の水利を押さえるような有力な一族の館がすでに南北朝期の頃から存在していたのではないかと考えているが、氏康は浄法寺など神流川対岸での作戦の展開も考慮して、上州に通じる要路に臨む中新里の地を軍勢の集結地として選んだのではあるまいか。

※1 神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.563-65参照 
※2 宇高良哲 「安保氏の御嶽落城と関東管領上杉憲政の越後落ち」 『埼玉県史研究』第22号 1988 参照 
※3 「俄ニ新里ニテ」と解釈したが、素人の解釈なので間違っている可能性もある。その場合は、ご容赦をお願いする。

◆中新里諏訪山古墳



中新里城跡のすぐ北を東西に走る古道を西進すると、諏訪山古墳に突き当たる。

 神川町教育委員会が設置した説明板によると、中新里諏訪山古墳は全長42mの前方後円墳(前方部の幅:約27m、後円部の径:約26m)である。横穴式石室を有し、土器・埴輪のほか、馬具・直刀・勾玉などが出土したと伝える。6世紀中頃の築造で、この地域の首長の墓と推定されている。

◆旧知善院跡に建つ観音堂と石造物群

中新里諏訪山古墳の裾を巡る道をそのまま西進すると、貫井の旧知善院(龍水山観音寺)跡に建つ赤紫の観音堂が見えてくる。

 このお堂の正面には「馬頭観世音」の額が掲げられており、また、東南角には庚申塔や庚申供養塔、道祖神などの石造物が残されている(下の写真参照)。庚申供養塔のひとつに「元文丑庚」の刻銘があることなどから、このお堂の南側を通る古道は武州と上州を結ぶ生活道路として、18世紀に入ってなお機能していたものと思われる(※1)。

 智善院は、明治期に入ると、無檀家・無住職の寺院は廃するという政府の方針によって廃寺になったようである(※2)。

※1 神川町に残る「石の観音様」という民話(「神川の民話」参照)は、この観音堂の縁起にまつわる民話である。この民話のあらましは、(比企郡の)小川へこうぞを売りに行った上州東平井村の商人が帰り道に貫井村にさしかかると、村の子供達が石の観音様に縄をかけて引きずりまわしていた。見かねた商人は子供達に注意していたずらをやめさせ、この観音様を馬の背にのせて家に持ち帰った。ところが、夢枕でもとの村に帰りたいという観音様の真意を知り、商人は観音様を貫井の地に戻すことになった。そして、村人達の手によって建てられた立派なお堂の中に、馬頭観音とともに安置されるようになった、というものである。この民話に登場する商人は、上州東平井村から小川へこうぞを売りに行った帰り道に貫井村にさしかかったという設定になっている。この設定は、観音堂の南側を通る道が、上州東平井村の人たちが武蔵の中央部へ赴く際によく利用する道であったことを踏まえているのではあるまいか。また、「石の観音様」とともに祀られているのが馬頭観音であることも、この道が馬方など物の運搬に携わる人たちにとって、生業に係わりのある大切な道であったことを物語っているように思うのである。
※2 神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.915-16参照


◆小松神社

観音堂の南側を通る道をそのまま南西に進んで、小松神社の方向に向かう。

 鳥居横に掲げられた「小松神社御由緒」によると、小松神社は古くは火宮明神と呼ばれていたが、天文年間(1532~55)に上州平井城主上杉憲政の臣、小松大膳がこの地に寓居した際、高祖の平重盛卿(小松公)を合祀し、社号を「小松神社」に改めたという(※1)。

 近世においては、火宮山小松院神流寺という本山修験の寺院が小松神社の別当を務めていたが、明治初年に廃寺になった(※2)。境内の西南に残る「御嶽山座王大権現」「大峯山上大権現」などの碑(下の写真参照)は、この神社が修験道とかかわりの深い神社であったことを偲ばせるものと言えよう。

※1 『藤岡市史』は、上日野の小柏氏について、(平重盛の子である)「維盛が武蔵国司の時に妾腹に生ませた維基を始祖としており、…(中略)…。維基は源平の大乱の後、鎌倉幕府を憚って上野国小柏(藤岡市上日野地区小柏)に隠れ、重盛から伝わる小松姓を小柏に変えた」とする「小柏氏系譜」を紹介している(藤岡市教育委員会編 『藤岡市史』通史編(原始・古代・中世)』 2000 pp.331-32参照)。「小柏氏系譜」の記述を信じれば、火宮明神の社号を改めたとする「小松大膳」は、中世において上州上日野地方に根を張った小柏氏と係わりのある人物なのではあるまいか。
※2 この神流寺は、御嶽山見晴台南方直下にあった京都聖護院末法楽寺の支配を受けていたようである(神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.915-16参照)。

◆神流川渡河点付近の現況写真



武州小浜と上州牛田を結ぶ神流川渡河点付近の現況を、群馬県の牛田側から撮影したものである(2014年4月26日撮影)。

 対岸の埼玉県側から延びてくる白い筋は、神川町寄島にある頭首工で神流川から取水した用水を群馬県側に分水する、神流川用水の導水管である。この付近は神流川の川幅が広がって(※1)、流れも上流と比べて緩やかになることから、土砂が堆積して浅瀬が形成される。実際に水が流れる瀬の部分に仮の板橋などを設ければ、渇水時には比較的渡りやすかったのではあるまいか(※2)。

※1 『新編武蔵風土記稿』には、「川幅三百間」(約545m)とある(大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』第12巻 雄山閣 1972 p.49参照)。
※2 山内上杉氏の居城があった藤岡市西平井に、三嶋神社という、15世紀後半の創建と思われる社がある。関東管領であった上杉顕定が伊豆三嶋大社から分祀し、平井城の氏神として祀ったとされているもので、毎年11月14日には秋の大祭の前夜祭として夜祭りが開催され、参詣客で賑わうという。(管理人が2014年頃、古道の調査をしている際に)藤岡市牛田地区の住民の方に伺ったところでは、1960年頃までは、この三嶋神社の夜祭りが近づくと、小浜と牛田を結ぶ渡河ルート上にある神流川の瀬に板の仮橋を架け、ひと冬の間、通行人の便に供していたそうである。この仮橋の架橋作業は、牛田と小浜の住民が一年交替で担当し古くから実施されてきたということだが、この架橋作業の開始年代については、近世に、そして(想定しうる上限としては)上杉顕定が伊豆三嶋大社を西平井に勧請したとされる15世紀後半にまで遡る可能性があるのではあるまいか。仮に15世紀後半にまで遡りうるとすれば、それは、室町期にこの経路が神流川の渡河ルートとして利用されていたことを示唆する傍証となるように思うのである。

◆神流川左岸の牛田に残る道標

神流川左岸の牛田に残る道標である。

 大正4年(1915)11月に御大典の紀念として牛田青年会が設置したものであるが、その西面 に
  左 約四町ニシテ藤岡鬼石間縣道
  右 神流川ヲ渉り埼玉縣丹荘村ヲ経テ児玉町方面
と刻まれている。これより、大正4年に至ってなお、牛田と対岸の丹荘村を結ぶ渡河道が生活道路として機能していたことがわかる。

 この道標の前を通る道を北にたどると、神田から矢場方面に至るが、矢場から神田を経てこの道標のある神流川堤に通じる道を、上州側では「八幡山道」と呼んでいたようである(※)。

※ 藤岡市史編さん委員会編 『藤岡市史 民俗編(上巻)』 1991 所収の「藤岡近傍の道路」参照。

◆八幡山道を北に向かう…


神流川渡河点に設置された道標の前から、「八幡山道」を北に300mほど進んだ地点に残る石造物群である。いちばん手前の傾いた石造物は馬頭観世音塔であるが、ほかに六地蔵を刻んだ石造物なども見える。
 右側の道が神田を経て、矢場方面に通じていたものと思われる。

 明治18年測量の2万分の1迅速測図(の部分図である)「藤岡町」にその記載はないが、迅速測図をベースに農業環境技術研究所が作成した 「歴史的農業環境閲覧システム」を見ると、武州小浜から上州牛田を経て(宿神田寄りの)神田に抜ける、この「八幡山道」が“鎌倉街道”と記載されている。

 部分図である「藤岡町」には記載がないのに、農業環境技術研究所提供の「歴史的農業環境閲覧システム」にはなぜ“鎌倉街道”と記されているのか、はっきりとした理由はわからないが、旧児玉町の田端から神川町の新里を経て小浜の渡河点に至るこのルートが雉岡築城以前の鎌倉街道の道筋であった、と考える管理人にとってはいささか意を強くする材料ではある。



 
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