北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  


◆「朝市の里」は何処に在りしや?


正安三年(1301)の集成とされる『宴曲抄』所収の「善光寺修行」に次のようなくだりがある。

…(前略)…打渡す早瀨に駒やなづむらん。たぎりておつる浪の荒河行過て。下にながるゝ見馴川。見なれぬ渡をたどるらし。朝市の里動まで立さはぐ。是やは兒玉玉鉾の。道行人に事とはん。者の武の弓影にさはぐ雉が岡。矢並にみゆる鏑河。今宵はさても山な越ぞ。いざ倉賀野にとゝまらん。…(後略)…。

 このくだりより判断すると、「善光寺修行」に見える鎌倉街道上道の道筋は、「浪の荒河」を行き過ぎた後、「見なれぬ渡」(身馴の渡)で身馴川を渡り、「朝市の里」を経て兒玉、雉が岡、鏑川、山名、倉賀野を通るコースをたどっていたようである。


◆舟渡しの場所は何処か◆

 そこでまず、どの地点で身馴川を渡っていたのかについて考察してみることにしよう。「見なれぬ渡」とある以上、「渡」、つまり舟渡しが必要とされるような地点に「見なれぬ渡」はあったものと思われる。
 管理人が身馴川の中流から下流にかけての流域を少しばかり歩き回って得た限られた知見の範囲内ではあるが、身馴川における舟渡しの伝承とそれに関連する遺跡・遺物は、本庄市の西五十子とその対岸にある旧岡部町榛沢の辺りにしか残されていない。

 『本庄市史』に、昔の鎌倉街道は「船出稲荷から船で小山川を渡って、対岸にある榛沢の船着稲荷社に着いた」という伝承が紹介されている(※1)が、実際に身馴川(小山川)の右岸を歩いてみると、榛沢の大寄八幡大神社(上の左側の写真参照)の東側を通る道を300mほど北進した地点に舟附稲荷神社(上の右側の写真参照)という神社が所在することを確認することができる。正面から社殿を拝すると背後に身馴川の堤が見える、この神社の存在は(鳥居や社殿が古くないようなので本来の社地は別の場所にあったのかもしれないが)、対岸の西五十子にある舟出稲荷社(下の写真参照)から出た舟を操って身馴川を渡った後に舟を収める舟着(附)きの場所、すなわち、渡し場がこの付近に存在していたことを示すものとみてよいのではないかと思われる。さらに、本庄市教育委員会発行の『本庄市の鎌倉街道と中山道』では、身馴川(小山川)の表流水は乏しく、表流水量が増加する地点は美里町大字南十条付近であるとしている(※2)。このことも、(南十条の下流に位置する)榛沢と西五十子に中世における身馴川の渡し場が存在したとする管理人の仮説を、別の面から補強する材料となっているように思うのである。

 そして、榛沢と五十子周辺に舟渡しの伝承が存在し、これ以外に身馴川中・下流域で舟渡しに関する伝承が確認できないことは、とりもなおさず、『宴曲抄』が集成された頃の鎌倉街道上道が榛沢郡の榛沢から西五十子に舟で渡り、兒玉・雉が岡へ向かうという経路をたどるものであったことを示すものと考えてよいのではあるまいか(※3)。
 (あくまでも「善光寺修行」に載る経路が鎌倉街道上道の道筋を示すものであると仮定したうえでのことではあるが)榛沢成清の勧請伝承が残る榛沢大寄八幡大神社の東側を通る道を北に向かった後、舟で身馴川を渡り、西五十子の大寄諏訪神社、栗崎を経て雉が岡方面に向かう道、すなわち、西五十子から栗崎に出た後、管理人が《Ⅲ.栗崎と小浜を結ぶ道》で示した経路をたどって小浜の神流川渡河点へと至る道が、『宴曲抄』が集成された14世紀初め頃の鎌倉街道上道の道筋であったように思われるのである。

※1 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 pp.799-800参照
※2 本庄市教育委員会 『本庄市の鎌倉街道と中山道』(本庄市郷土叢書第2集) 2013  p.10および p.19の註6参照
※3 『本庄市の鎌倉街道と中山道』では、「朝市の里」の所在地=児玉(兒玉) という前提のもとに鎌倉街道上道の経路の説明がなされている(同書p.10参照)。しかし、「朝市の里」の所在地=児玉(兒玉) と断定できる根拠が特に存在しているわけでもないようであるから、「朝市の里」と「兒玉」はそれぞれ別の場所を示していると考えるのが無理のない解釈であるように思われる。
 「善光寺修行」には、「見なれぬ渡」という(渡河点を表すと思われる)言葉の直前に「下にながるゝ見馴川」という一文が見えるから、この渡河点付近においては、一定程度の水量をもった川の流れがあったものと推定される。『本庄市の鎌倉街道と中山道』では、現在の美里町広木を西北方向に進んだ後、一里塚榎と言われる大榎が立っていた地点で陣街道に入り、この地点の少し西方で対岸の児玉(兒玉)に渡っていたとするのだが、この陣街道・児玉(兒玉)間においては、「表流水に乏しく流水の主体は伏水して」いるとしている(同書 pp.9-10参照)。とするなら、表流水の乏しい地点にある陣街道と児玉(兒玉)を結ぶ渡河ルートを、「善光寺修行」に見える「見なれぬ渡」の渡河ルートとするのには、(渡河点付近の身馴川の水量という観点から)少し無理があるように思うのである。



◆「朝市の里」は身馴の渡から兒玉に至る道筋に存在したのでは?◆
 先に示した「善光寺修行」のくだりを見ると、「見なれぬ渡」の後、「朝市の里」「兒玉」「雉が岡」の順で地名が出てくる。とすれば、この時代の鎌倉街道上道は「見なれぬ渡」で身馴川を渡った後、「朝市の里」を経て兒玉、雉が岡に向かっていたと考えてよいように思われる。そこで、前項で考察したように、14世紀初め頃における鎌倉街道上道が榛沢から西五十子に至るという経路で身馴川を渡河していたとするならば、「朝市の里」は、西五十子から兒玉・雉が岡に至る古道の途上またはその周辺にあったものと思われる。こうした観点から、「朝市の里」の所在地を比定するとすれば、その候補地はどこに求められるのか考察してみることにしたい。

《候補地(1)》 美里町下児玉川原崎地区
 美里町下児玉の川原崎地区には現在、鎮座する神社が見当たらず、寺院も楊林寺(次に掲載する写真を参照)があるだけで、それ以外の寺院は確認することができない。その楊林寺も、その旧地は下児玉の中山地区にあったと伝えられている。強引な推論という批判はあるかもしれないが、これらは川原崎地区に、歴史上のある時点に至るまで神社や寺院の存在する条件が備わらなかったことを示唆しているのではないかと思われる。

 それでは、神社や寺院の存在する条件がなかなか備わらなかったのは、何故なのか。美里町教育委員会が発行した『宮ケ谷戸遺跡・砂田遺跡』(美里町遺跡発掘調査報告書第21集 2012)によると、美里町下児玉川原崎集落の北西に位置する砂田遺跡において埋没谷が検出されており、この埋没谷については身馴川の旧流路である可能性が指摘されている。埋没谷から出土した倒木がC-14年代測定の結果、弥生時代に相当するとされている(同書 p.187参照)ことから、弥生時代の埋没谷と推定されるとはいえ、川原崎地区が古くから身馴川の氾濫に悩まされてきたことを明かすものであり、居住地としての川原崎の不安定さを示唆する遺跡とみることができるように思われる。
 さらに、交通面に注目すれば、川原崎地区の北側には西五十子と児玉・雉が岡を結ぶ古道が走っており、また北に向かえば下浅見を経て四方田・今井方面に通じる古道も存在する。(中世における市庭は河川の中洲や氾濫原またはその周辺に成立するものが多いように思われるが)身馴川の氾濫原に位置すること、また東西と南北に走る古道の交差する、交通の要衝とも言うべき場所に立地していること(※4)、この2つの立地条件から、「朝市の里」の比定地を挙げるとすれば、川原崎はその有力な候補地となるのではあるまいか。

※4 延元2年(1337)に北畠顕家に率いられる南朝方の軍勢と足利方の軍勢との間で行われた薊山合戦と、永禄4年(1561)に北条氏康方と上杉政虎(上杉謙信)方の両軍勢が戦闘を展開した生野山の戦いは、いずれも、この美里町下児玉川原崎の周辺で繰り広げられた合戦である。これらの合戦が川原崎と近接する場所で展開されていることは、川原崎が身馴川沿いの交通の要衝に位置していたことと無関係ではないと思われる。

《候補地(2)》 美里町下児玉中山地区から本庄市児玉町入浅見地区にかけて
 とは言え、「朝市の里」とある以上、その比定地は「里」として、一定の広がりを持った地域であったのではないかと思われる。その点、川原崎地区だけでは広がりに欠けるという気がしないでもない。その点に注目すれば、西五十子と兒玉・雉が岡を結ぶ古道の南側にある川原崎に対して、古道の北側に広がる美里町下児玉中山地区から本庄市児玉町入浅見地区にかけての地域が、もう一つの候補地となるかもしれない。

 この古道の北側には浅見山が広がり、その西南部丘陵には(児玉党の菩提寺であったとも言われる)西光寺があったと伝えられている(左の写真参照)。児玉党の菩提寺とされる以上、西光寺はそれなりの規模を持つ寺院であったのではないかと思われ、また、その東方の中山地区は移転前の楊林寺があったところとされている。
 大きな神社や寺院の門前には市が立つことが多いと思われるから、西光寺の南方に広がる地域は「朝市の里」のひとつの候補地となり得るのではあるまいか。(現在に残る景観をそのまま中世に投影させて、その景観を想像してみるのは問題があるかもしれないが)美里町下児玉中山地区から本庄市児玉町入浅見地区にかけては、西五十子から兒玉・雉が岡に至る経路のなかで、今でも「里」らしい景観をよく残している地域ではないかと思われる。入浅見地区に広がる谷地田と集落周辺のたたずまいに対しては、特にその感を深くする。
 仮にこの地域が「朝市の里」であるとするなら、「朝市の里」の「朝」と浅見の「浅」は通じているようにも思えるのだが、これ以上の思いつきを述べるのは慎むべきかもしれない(※5)。

※5 以上、「見なれぬ渡」の渡し場は榛沢と西五十子を結ぶ地点に存在したという仮説のもとに、「朝市の里」に比定できるのではないかと思われる候補地を、西五十子から兒玉・雉が岡に通じる古道の南側と北側に1つずつ挙げてみた。さらに、補足が許されるなら、この2つの地域を併せた全体、つまり、下児玉の中山地区および川原崎地区から本庄市児玉町入浅見地区に至るまでの地域全体が「朝市の里」であったという見方も成り立つかもしれない。


◆まとめ◆
 現在の美里町広木を西北方向に進んだ後、一里塚榎と言われる大榎が立っていた地点で陣街道に入り、この地点の少し西方で対岸の児玉(兒玉)に渡っていたとするのが、鎌倉街道上道の経路に関する一般的な見方であり、このような見方を採る方々から見ると、管理人の説は突飛なものに聞こえるかもしれない。しかし、「善光寺修行」にその名が見える「朝市の里」と「兒玉」がそれぞれ別の場所を示すとするなら、陣街道から児玉(兒玉)に渡るというルートでは「朝市の里」に比定する候補地を見出すことはできないように思われる。「朝市の里は、玉鉾・雉岡の手前ではなく、身馴川の渡し場から望める所であった」と推定するのは『上里町史』である(※6)が、西五十子の身馴川対岸にある榛沢からであれば、下児玉の川原崎辺りを望むことは可能であるように思うのである。

※6 上里町史編集専門委員会編 『上里町史 通史編 上巻』 1996 pp.398-401参照。なお、『上里町史』は『諏訪大明神絵詞』に「朝ノ市」に関する記事が見えることを論拠に、朝市の里を「国境河筋地域」、すなわち「神流川・烏川河筋地域」に立てられていた市であると推定している(p.401 および p.399参照)ようであるが、その推定では身馴川流域から離れて北に寄り過ぎてしまうのではあるまいか。



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