北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  


Ⅲ.栗崎と小浜を結ぶ道

<次に、栗前橋のすぐ下流にあったと思われる身馴川渡河点と、神川町小浜の神流川渡河点を結ぶ道をたどってみることにします>


【以下の画像については、画像を右クリックしてプルダウンメニューから「画像だけを表示」を選択すると、拡大することができます】

◆栗崎館推定地の南側に通じる道



栗前橋の下流200mほどの地点から栗崎集落に通じる道である。

 後榛沢の新井から身馴川に延びてきた道は、対岸のこの道につながるものと思われる。そして、栗崎館推定地の南側を通る道に出て宥勝寺の東側に通じていたのではあるまいか。

 

◆庚申会の碑


明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、《Ⅰ.西五十子と小浜を結ぶ道》で言及した船出稲荷社の西側にある不動寺の南側辺りから、東本庄稲荷神社の北側を経て栗崎に延びる道を確認することができる。左の写真に示した庚申會の碑は、西五十子からの道が栗崎にさしかかる辺りに設置されていて、「安政七年」の銘が残っている。

 したがって、これからそのルートを追跡しようとする《Ⅲ.栗崎と小浜を結ぶ道》の経路は、Ⅰで述べた《西五十子と小浜を結ぶ道》とは経路が異なるが、やはり西五十子と小浜を結ぶもう一つのルートとしての性格も備えていたように思われる。

◆宥勝寺と庄小太郎頼家の供養塔


浅見山丘陵の東端、栗崎地内字東谷にある西光山宥勝寺は、一の谷の合戦で討ち死にした庄家長の嫡子・小太郎頼家の菩提を弔うために、妻の妙清禅尼によって建仁2年(1202)に建立されたという(※)。本堂の北西にあたる墓地内には庄小太郎頼家の供養塔と伝える墓塔(下の写真参照)があり、その東には庄氏・本庄氏一族のものと思われる五輪塔が並んでいる。

※ 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 pp.669-70参照


◆宥勝寺南方の庚申塔群



宥勝寺入口の前を通る現在の道を西側に300mほど進むと、左側に入る小道があって、そこには7基の庚申塔が残されている。

「寛政十二年」「元文五年」「万延元年」「安政七年」などの紀年銘が確認できるが、これらの庚申塔群の前を通る道は塚本山丘陵に入って、美里町の下児玉地区に通じていたのではあるまいか。

◆塚本山丘陵上の石造物群

栗崎から下児玉に延びる塚本山丘陵の尾根上を走る道は、古代にも遡る可能性のある古道と思われるが、その古道沿いに設置されている石造物群である。

 いちばん右は昭和三年に建立された「馬頭観世音塔」であるが、いちばん左は「享和二戊歳」の刻銘がある庚申塔、左から三つ目は「嘉永四年」の刻銘のある「百八塔供養塔」である。これらの石造物は、丘陵上の、早稲田大学本庄高等学院サッカー場の南にあたる地点(※1)に設置されている。

 この石造物群の背後、つまり、丘陵の南側斜面は削平されて、平坦な場所が広がっている。地元の方にお聞きしたところでは、この場所にはもと楊林寺の仏殿が建っていたが、一度ならず火難に遭遇したこともあって、川原崎地区にある現在地に移転することになったという。

 丘陵上の尾根を走る古道はそのまま西に進み、雷電山にあった下浅見の雷電神社(※2)の南側に出ていた可能性もあるが、石造物設置点から下児玉側に下りて右に曲がり、児玉党庄氏の菩提寺所在地跡とも言われる西光寺跡(※2)の南方に出て、入浅見に通じていたのではあるまいか。

※1 「中山峠」と呼ばれているようである。 
※2 雷電神社および西光寺跡については  中 英夫 『武州下浅見誌』 1985 中英夫著書刊行会(非売品)  の裏見返し所載地図を参照されたい。

◆下児玉中山地区の山根に残る小堂



上記の石造物群の東側を通る道を下児玉側に下りると、中山地区内の山根と呼ばれる一角に小さな仏堂がひっそりと建っているのに気づく。安置されている仏様は眼病に霊験あらたかであるということだが、光背には設置者と思われる「楊林寺現住竺外」と「正徳四」の刻銘が残されている。

 この小堂の北側はわずかばかりの畑となっているが、畑の北側には楊林寺の旧地といわれる平坦地が広がっている。

◆入浅見の観音堂



この観音堂は、美里町下児玉から生野山阿知越を経て吉田林、さらには八幡山と児玉の境界部辺りへと抜ける古道沿いに立地する。

 江戸時代においては金鑽山観音寺と号し、300mほど西方に鎮座する金鑽神社の別当を務める新義真言宗の寺院であったが、明治3年(1870)に廃寺となっている。  

◆入浅見の金鑽神社


観音堂前の古道を300mほど西進し、入浅見自治会館前の三叉路を右に入った所に鎮座する。

 社殿は、古墳の墳丘の南側の部分を削平して建てられている。鳥居脇の標柱に記された説明文によると、古墳は5世紀中葉に築造された児玉地域最大の円墳(※)であり、墳丘やその周辺からは叩き目をもつ円筒埴輪の破片が採集されている。

※ 菅谷浩之氏は、「径69m、高さ9.75mの、大型の円墳」と推定されている(菅谷浩之 『北武蔵における古式古墳の成立』 児玉町教育委員会ほか 1984 p.34参照)。

◆阿弥陀堂の石造物群


入浅見自治会館の前に戻って生野山阿知越へと至る古道を西進すると、右側に墓地が見えてくる。

 阿弥陀堂と呼ばれるお堂の建つ、この墓地の南縁には馬頭観世音塔や庚申塔など数基の石造物が据えられており、それらの石造物には「享保十八年」「安政七年」「万延元年」などの紀年が刻銘されている。
 これより推察するに、このお堂の前を通る古道は、生野山の阿知越を経て八幡山方面へと至る生活道路として、江戸時代末期に至るまでその機能を失っていなかったようである(※)。


※ 先日、中学校の同窓会に何十年ぶりかで出席し、入浅見地区に実家がある同級生に確認したところ、“こだまゴルフクラブ”のゴルフコースが出来てその敷地内に立ち入ることができなくなる前までは、弁天池の前から阿知越に抜けて児玉の市街地に向かうルートをよく利用したということであった。【2019年4月4日追記】

◆児玉教育会館南の石造物群

阿弥陀堂(?)の前を通る古道をさらに西に向かうと弁天池の前に出るが、その先は“こだまゴルフクラブ”のゴルフコースとなっているので立ち入ることができない。そこで、 入浅見自治会館の前から山蛭川に出て、吉田林に向かうことにする。

 入浅見の阿知越から国道254号線の児玉バイパスを渡って児玉教育会館の南側に出ると、吉田林日枝神社の鳥居前に通じる道路の右側に数基の石造物が建っているのに気づく。
 いちばん右の馬頭観世音塔は明治26年に建てられたものであるが、右から3つ目の石仏には「宝永元年」、左端の庚申供養塔には「明和四丁亥」の刻銘が残されている。

 これより察するに、入浅見から生野山阿知越を越えて吉田林に至る古道は吉田林日枝神社の北側を通って、雉が岡に通じていたのではあるまいか。具体的な経路としては、吉田林日枝神社の鳥居に至る150mほど手前で現在の吉田林児童公園の南側を通る道(※)に入り、JR八高線児玉駅のプラットフォーム北端をかすめて旧児玉町の市街に通じていたように思うのである。

※ 明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」に記載されている「藤池」が、小さくなってしまったようであるが、今でも吉田林児童公園の北側に残っている。

◆吉田林の日枝神社

『武蔵国児玉郡誌』によると、当社は初め御年社(みとししゃ)と称し、治暦二年(1066)の創立であると言い伝える。その後、永禄年間(1558~1570)に至って、雉岡城の稗将山口修理亮盛幸が同城守護のために近江国日枝山(比叡山)より山王権現を遷して御年社に合祀し、日吉大権現と称したという(※)。

※ 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) pp.349-50参照

 JR八高線児玉駅のプラットフォーム北端をかすめてからの道筋としては、そのまま西進して中林美容院の北側で国道旧254号線を横切り、さらに西方に直進して中神内科クリニックの南側に出て雉岡城の南に回り込むルートが想定される。
 そのように考える根拠としては、中林美容院の北側から中神内科クリニックの南側に抜けるこの道の北側と南側で、現在の地名表示が明確に異なることが挙げられる。この道を境に北の「八幡山」と南の「児玉」にはっきりと地名表示が分かれているという事実は、この道が雉岡築城以前の古い道であり、中世の児玉地方における基幹道路のひとつであることを示唆するものとみることができるように思うのである。

◆雉岡城跡

埼玉県が設置した説明板によると、雉岡城は八幡山城とも呼ばれ、戦国時代に山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭いので山内上杉氏は上州平井城に移り、家臣の夏目豊後守定基を当城に置いて守備させた。永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形北条の属城となったが、天正18年(1590)に豊臣方小田原攻めの際に前田利家に攻囲され落城した。天正18年8月の徳川氏関東入国後、松平家清が1万石の格式を受けて領主となり居城としたが、慶長6年(1601)三河国吉田城に転封されるに及び廃城となった、という。

 以上は、『新編武蔵風土記稿』所載の記事に沿った説明と思われるが、山内上杉氏が雉岡城を居城とした確証はなく、雉岡城の築城を実際に進めたのは夏目定基である可能性が高いのではあるまいか。
 児玉にある実相寺は、延徳二年(1490)に定基が市街地東方にある生野の地より現在地に移転(※1)、東福院も延徳三年に定基が建立(※2)したと伝えられていること、また、旧児玉町連雀町にある東石清水八幡宮の西北に位置する雉岡山玉蔵寺も、山内上杉氏による雉岡築城の際に家臣有田(夏目)定基に命じて霊場を現在地に移したとされている(※3)ことなどから判断すると、雉岡城下の町割りとその整備にあたったのは定基であるように思われるのである。

 雉岡築城以前の状況はどうかと言えば、昭和48年に本郭付近を崩して児玉中学校の体育館を建設した際に、大量の五輪塔が出土している。立塔だけでも44基を数えるなかで、紀年銘の刻まれているものが8基ほどあり、最も古いものには応永二年(1395)の刻銘があるという(※4)。これより、雉岡築城以前に「雉が岡」に墓地や寺院が存在したと考えられるが、寺院だけでなく、しかるべき武士の館も存在したと考えて大過ないのではあるまいか。

※1 児玉町史編さん委員会編 『児玉町の中世石造物』 1988 p.15参照 
※2 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.412参照
※3 玉蔵寺門前に掲げられた説明板に拠る。
※4 児玉町史編さん委員会編 『児玉町の中世石造物』 1988 pp.18-19参照




 

雉岡城の二の郭や三の郭は削平されて、現在は児玉中学校や児玉高校の敷地となっているが、城跡の一部が城山公園として公園化されており、水堀なども残されている(左の写真参照)。

◆第二金屋の庚申供養塔



雉岡城跡を南に向かうと、国道462号線に出る。この462号線を西進すると、第二金屋の白髭神社の東方300mほどの地点で田端方面に向かう古道が右に分岐する。写真は、この道を200mほど進んだ地点に残る庚申供養塔を撮影したものである。(雉岡城築城以前は、現在の本丸跡の南側を通って直接、現在の白髭神社所在地の北方に通じる道があったようにも思われるが)この庚申供養塔の前を通って田端に向かう道が、雉が岡から新里へと向かう鎌倉時代末期の鎌倉街道上道の道筋であった可能性があるのではあるまいか。

◆田中供養地の板碑群

「雉が岡」に突き当たった古道は、南側に回り込むようにして西進し、第二金屋にある白髭神社の北方に向かう。その先は、さらに西北に進んで田端の“田舎茶屋 きんしょう”脇の道に通じていたのではあるまいか。

 この道をそのまま西進して神川町の萩平方面に至る道が、『歴史の道調査報告書』に鎌倉街道上道の枝道として記載されている“上杉道”であるが、この道は“上杉”の名が冠せられていることからも察せられるように、山内上杉氏が上州平井城を居城として定め、さらには雉岡城が築城された後に利用されることになった、多分に軍事的な性格をもつ道筋であったのではないかと思われる。山内上杉氏が上州西平井に居を据える以前は、田端の集落に入った後、「田中供養地」の北側を通り、西北の新里に向かう道筋が児玉地方と西上州を結ぶメインの街道であったように思うのである。

 「田中供養地」は、かつて、千々和實氏によって板碑流通に係る板碑の生産地あるいは集積地ではないかとして紹介された遺跡である。ところが、平成3年(1991)に児玉町遺跡調査会によって同遺跡隣接地の発掘調査が行われた結果、板碑を含む多数の墓壙群が検出されたため、これらの板碑は埋葬に伴って墓壙内に置かれたものであり、板碑の生産地あるいは集積地ではないかとする千々和氏の推定とは異なることが明らかになった(※1)。とは言え、200を超えるという墓壙の数の多さもさることながら、その墓壙の35~40%を火葬墓が占めることから「武家の墓地であった可能性が高い」とされる(※2)など、「田中供養地」とその隣接地はあらためて注目される遺跡となっている。塩谷氏あるいは安保氏に関係する遺跡ではないかとする指摘もあるが、雉岡築城以前に「雉が岡」に拠っていた武士集団の存在が想定される(※3)ので、そのような武士集団に関係する遺跡である可能性も視野に入れておく必要があるのではあるまいか。

  上の写真は、田端の十二神社前にある田中供養地に集められていた板碑群を撮影したものである(2014年3月25日撮影、現在は十二神社北側の墓地の一画に移されている)。

※1 本庄市遺跡調査会報告書第29集 『田端中原遺跡 ―板碑を伴う中世火葬墓群の調査― 』 2010 p.99参照 (本庄市教育委員会 『本庄市の遺跡と出土文化財』 2016 pp.46-47 も参照してください)
※2 上記報告書 p.7参照
※3 『宴曲抄』所収の「善光寺修行」に「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」とあるから、『宴曲抄』が集成されたとされる正安三年(1301)、つまり鎌倉時代の末期にさしかかる頃、雉が岡(またはその周辺)に「者の武」と形容されるような、それなりの勢力を備えた武士団の存在することが広く知られていたのではあるまいか。

◆新里地区赤羽の石造物群



田端から新里へ向かう古道が、新里の赤羽地区にさしかかった辺りに据えられている石造物群である。

 欠損したものも含めると9基になる石造物のうち6基が庚申塔で、石仏に刻まれたものを加えると「元文元丙辰」「宝暦七丁丑年」「嘉永元年戊申」の紀年銘が確認できる。これより、田端から新里に抜けるこの古道は、近世にあってもそれなりに交通量のある生活道路であったと考えてよいのではあるまいか。

◆岡部屋敷館跡に残る墓塔群

新里地区赤羽の庚申塔群より先の経路については、宿新里のメインストリートを西進して白岩山光明寺の山門前に通じていたのではないかと思われるが、宿新里集落の形成以前においては岡部屋敷館跡の北側を通る道など別のルートであった可能性もあるので、岡部屋敷館跡についても触れておくことにする。

 『神川町誌』によると、新里集落の南、新里研修集会所の西側一帯が岡部屋敷館跡とされる。たび重なる土地改良の結果、現在ではまったく現状をとどめていないということだが、土地改良前の地籍図から東西約160m、南北約140mほどの館であったと推定されている(※1)。
 この館跡は、一の谷の合戦で活躍した岡部六弥太忠澄の陣屋であったとも伝えられるが、岡部六弥太とこの館との関係は不明であるという(※1)。また、館跡の西南500mほどの地点には、延暦20年(801)、坂上田村麻呂が東征の途次当地に来たり自ら幣帛を捧げて社殿を建設したという伝承の残る、白岩神社が鎮座している(※2)。

※1 神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.565-66参照 
※2 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.355参照

◆白岩山光明寺(矢庭光明寺)

白岩山光明寺の本尊は、銅造鍍金の善光寺式阿弥陀如来立像であるが、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館に収蔵されている。総身が黄金色に輝く、像高48.8cmのこの仏像は、他の多くの善光寺式阿弥陀如来像と同様に小ぶりな金銅仏だが、その背面下方に、永仁3年(1295)、栄賢・幸賢によって造立されたことを示す刻銘が残されている(※1)。鎌倉期から室町期にかけては盛んに善光寺式の阿弥陀如来像が造像され、それを本尊とする新善光寺があちこちに草創されるが、矢庭光明寺も(新善光寺と称した形跡はないものの)そのような善光寺信仰の普及・浸透という時代背景のなかで創建されることになったものと思われる。

 牛山佳幸氏によれば、鎌倉期から南北朝期にかけて開創された新善光寺の大部分は、「幹線道路沿いや主要道の交差する十字路に面した地などの陸上交通の要衝、あるいは大河の渡河点や津泊に臨む地などの水上交通の要地」、さらには「京・鎌倉や地方では府中のような、商業貿易の繁栄していた都市的な場」に立地している(※2)ということである。とすれば、矢庭光明寺もこのような地理的条件のいずれかを備える地に立地していたと考えることができるのではあるまいか。

 光明寺の立地する新里の地が京・鎌倉や府中のような都市的な場であったとするのは無理なようであり、また神流川渡河点からはやや離れてもいる。したがって、牛山氏の挙げられた地理的条件のうち、陸上交通の要衝と言えるような場所に新里の地があったこと、このことが一つの理由となって、現在地に光明寺が開創され、銅造阿弥陀如来立像が造像されることになったのではあるまいか。

 光明寺の門前は、「宿新里」と呼ばれている。(宿坊の跡とも言われる地割を残す)この門前の地名は、新里の地が上武国境地方でも比較的、人の往来の多い場所の一つであったことを示すものであり、武州と上州を結ぶ中世の幹線道路沿いに、光明寺が立地していたことを物語る一つの傍証となっているように思うのである。

※1 『新編埼玉県史 資料編9 中世5 金石文・奥書』 埼玉県 1989 p.13参照
※2 牛山佳幸 「鎌倉・南北朝期の新善光寺(上)」『寺院史研究』第6号 2002

◆光明寺北方の辻に建つ石地蔵と道標

光明寺門前で右に折れて北方に進むと、北西角に石地蔵の建つ辻に出る。

 石地蔵の東側に位置する、辻の北東角には、新里青年会が大正12年(1923)4月に設置した道標が残っていて、その北面には
  右 新里ヲ経テ鬼石(※)町ニ至ル
  左 丹庄村ヲ経テ藤岡町ニ至ル

また、西面には
  右 丹庄村八日市ヲ経テ本庄町ニ至ル
  左 丹庄村小浜ヲ経テ群馬縣ニ至ル

と刻まれている(下の写真参照)。
 この道標は直接的には、群馬県の藤岡町から元阿保・植竹を経て群馬県鬼石町に至る道と、本庄町から八日市の熊野神社前を経て小浜の神流川渡河点へと向かう道がこの辻で交差していることを示すものであるが、新里から小浜の神流川渡河点へと向かう道が、大正年間に至ってなお北武蔵と西上州を結ぶ道として機能していたことを証す資料ともなっている。




 



 なお、辻の北西角に残る石地蔵(上の写真参照)が南面しているのは、ここから西進して小浜の神流川渡河点に向かう旅人を意識して建てられたことによるものと思われる。

※ 欠損していてわかりにくいが、「鬼石」と刻まれているように思われる。

◆貫井の豊受神社



光明寺北方の辻から西進して県道22号線を渡り、児玉郡市広域消防神川分署脇の道に入る。坂を下ってしばらく行くと、貫井の豊受神社の前に出る。

  豊受神社は、近世において貫井村の鎮守であった。『新編武蔵風土記稿』には、「小松明神神明合社」とみえる。

 

◆古道の左右に残る石造物群

豊受神社の前からさらに西進すると、小浜の集落にさしかかる辺りに石造物群が残っている。

 左の写真に見える石造物群は、古道の北側に建っている。堀に打ち捨てられていたものを、近くに住むご婦人が、小浜集落内であった建築工事の際に残った生コンクリートをもらい受けて、現在あるような状態に整備してくださったそうである。
 2体の地蔵菩薩の左側にある石造物には、「南無地蔵大菩薩」と「享保二十乙卯」の刻銘が残る。また、右端の笠のある石造物には「地蔵常夜燈」と刻まれている。

 下の写真に見えるのは、古道の南側に残る石造物である。左端とそのすぐ右側にある石造物は馬頭観世音塔で、それらの右に建つやや大きな石造物は庚申供養塔である。この庚申供養塔には「享保二十乙卯」の紀年銘があるから、北側の「南無地蔵大菩薩」と同じ時期に設置されたものかもしれない。




 

◆小松神社拝殿と庚申塔

そのまま道なりに200mほど進むと、《Ⅰ.五十子と小浜を結ぶ道》で触れた、旧知善院跡の南側から南西方向に延びてくる古道と合流し、小松神社の東側に出る。

 『武蔵国児玉郡誌』では小松神社の創立を正慶元年(1332)とする(※1)が、拝殿に掛かる由緒書には「本社内殿正面板に正応元戊子年(1288…註 管理人)九月創立 小波間村の文字存せり」と記されているという(※2)。

 下の写真は、境内の西南角に残る庚申塔である。庚申塔の右側にある猿田彦太神の碑には、「寛政十二庚申年二月」の銘が残っている。
 小浜集落の入口に残る地蔵菩薩や地蔵常夜燈の周囲を整備してくださったご婦人の話によると、この庚申塔の前を通る古道を西に向かうと、神流川の堤に至るまでの間に、斃れた馬を埋葬する場所があったということである。

※1 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) pp.372-73参照
※2 鳥居横に掲げられた説明板に拠る。




 

◆神流川渡河点付近の現況写真

武州小浜と上州牛田を結ぶ神流川渡河点付近の現況を、群馬県の牛田側から撮影したものである(2014年4月26日撮影)。

 対岸の埼玉県側から延びてくる白い筋は、神川町寄島にある頭首工で神流川から取水した用水を群馬県側に分水する、神流川用水の導水管である。この付近は神流川の川幅が広がって(※)、流れも上流と比べて緩やかになることから、土砂が堆積して浅瀬が形成される。実際に水が流れる瀬の部分に仮の板橋などを設ければ、渇水時には比較的渡りやすかったのではあるまいか。

※ 『新編武蔵風土記稿』には、「川幅三百間」(約545m)とある(大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』第12巻 雄山閣 1972 p.49参照)。

◆神流川左岸の牛田に残る道標

神流川左岸の牛田に残る道標である。

 大正4年(1915)11月に御大典の紀念として牛田青年会が設置したものであるが、その西面 に
  左 約四町ニシテ藤岡鬼石間縣道
  右 神流川ヲ渉り埼玉縣丹荘村ヲ経テ児玉町方面
と刻まれている。これより、大正4年に至ってなお、牛田と対岸の丹荘村を結ぶ渡河道が生活道路として機能していたことがわかる。

 この道標の前を通る道を北にたどると、神田から矢場方面に至るが、矢場から神田を経てこの道標のある神流川堤に通じる道を、上州側では「八幡山道」と呼んでいたようである(※)。

※ 藤岡市史編さん委員会編 『藤岡市史 民俗編(上巻)』 1991 所収の「藤岡近傍の道路」参照。

◆八幡山道を北に向かう…

神流川渡河点に設置された道標の前から、「八幡山道」を北に300mほど進んだ地点に残る石造物群である。いちばん手前の傾いた石造物は馬頭観世音塔であるが、ほかに六地蔵を刻んだ石造物なども見える。
 右側の道が神田を経て、矢場方面に通じていたものと思われる。

 明治18年測量の2万分の1迅速測図(の部分図である)「藤岡町」にその記載はないが、迅速測図をベースに農業環境技術研究所が作成した 「歴史的農業環境閲覧システム」を見ると、武州小浜から上州牛田を経て(宿神田寄りの)神田に抜ける、この「八幡山道」が“鎌倉街道”と記載されている。

 部分図である「藤岡町」には記載がないのに、農業環境技術研究所提供の「歴史的農業環境閲覧システム」にはなぜ“鎌倉街道”と記されているのか、はっきりとした理由はわからないが、旧児玉町の田端から神川町の新里を経て小浜の渡河点に至るこのルートが雉岡築城以前の鎌倉街道の道筋であった、と考える管理人にとってはいささか意を強くする材料ではある。



 
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