Ⅰ.西五十子と小浜を結ぶ道

<まず、西五十子の身馴川渡河点から神川町小浜の神流川渡河点を結ぶ道をたどってみることにします>

この道は、西五十子の身馴川渡河点から北堀、西富田方面に向かい、西富田の宥宝寺北裏の追分を久城(現・上里町嘉美)方面に進む。そして、久城から、旧児玉郡と賀美郡の郡境を下真下に向かい、八日市の熊野神社前から中新里城の北側を通って小浜の神流川渡河点に通じていた、というのが「管理人」の推定である。
  『歴史の道調査報告書』は、「榛沢の集落南端で、榛沢成清の勧請伝説を持つ大寄八幡の東側を通り、そこから大きく西方にカーブして小山川(身馴川)を渡り、本庄市北堀から西富田を経て上里町七本木辺りに出て藤岡方面に向ったと伝承される」古道の存在に言及し、その古道が旧岡部町の榛沢付近では゛藤岡街道゛と呼ばれているという記事を載せている。この゛藤岡街道゛というのは、同じく榛沢付近で“鎌倉裏街道”と呼ばれているものと同じ道筋を指すのではないかと思われるが、本庄市北堀から西富田、今井を経て上里町七本木の本郷に向かっていたというのが管理人の推定である。本郷から先は、長浜下郷で神流川対岸の藤岡市小林に渡り上州下仁田に至る、近世においては“上州姫街道”とも呼ばれる道筋をたどっていたように思うのである。そして、(具体的な経路は不明であるが)この道とは別に今井から旧児玉郡と賀美郡の郡境付近を通って神川町八日市方面へと至る古道があったのではあるまいか。

【以下の画像については、画像を右クリックしてプルダウンメニューから「画像だけを表示」を選択すると、拡大することができます】

◆西五十子の舟出稲荷社



身馴川および男堀川に架かる2つの橋を渡って左折し150mほど西に進んだ、男堀川の左岸にある。そのまま西の方向に進むと、大寄諏訪神社の前に出たものと思われる。

◆西五十子の大寄諏訪神社

鳥居前に設置された説明板によると、信州諏訪の大祝貞継(『本庄市史』の記載では藤原季利)が平将門の乱に際して西五十子に陣を構えたとき、諏訪大社の分霊をお祀りしたのが始まりで、寛正年中(1460~66)、関東管領上杉房顕が宮殿を再興したという。

 大寄諏訪神社の南側から西側にかけては本庄総合公園が整備されるなど近世や中世の状況とは一変しているので、中世はおろか近世の古道の跡をたどることも難しいが、『本庄市史』なども参考にして管理人なりに中世の古道を推定してみると、北堀若泉稲荷神社の北方300mほどの地点に通じていたのではあるまいか。ここには7基ほどの石造物が残されている。

 また、明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、大寄諏訪神社の西側で北堀若泉稲荷神社の北方に向かう道と分かれて栗崎館の方向に向かう道も確認できる。この道も(やや遠回りになるきらいもあるが)身馴川の渡河点から神川町小浜の神流川渡河点に至る古道の一つであり、浅見山丘陵の南側にある塚本山丘陵を通って生野山丘陵に抜け、児玉・雉が岡を経て神川町小浜に通じていたように思われるのである。このルートの具体的な経路については、《Ⅲ.栗崎と小浜を結ぶ道》で追跡していくことにしたい。

◆北堀の石造物群

左から2つ目の庚申塔は明治期に入ってから建てられたもののようであるが、天明三年銘のある馬頭観世音塔や文化元年銘の石仏などが確認できる。いちばん左の石造物は、二十二夜塔である。

 石造物群に向かって右の方向に進むと畑中の道が延びているが、明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、この道と思われる古道が右に折れて南下した後、左に折れると大寄諏訪神社の前に通じているように思われる。

 逆に、石造物群に向かって左側には県道本庄寄居線が走っているが、この県道を西側に渡ると、新田原方面に通じる細道を確認できる。北堀の石造物群の前を通る古道は、現在の新田原集落センター前に通じていたのではあるまいか(※)。

※ 『本庄市史』に、県道本庄-寄居線にある北泉駐在所の北側に出て、女堀川の「二ツ口」の二ツ口橋に出ていたとする鎌倉街道の記述がある(本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 p.800参照)。

◆新田原集落センター前の庚申塔群



北堀の新田原集落センター前にあって、大小合わせて25基ほどの石造物が確認できる。よだれかけが掛けられたお地蔵さん以外はすべて庚申塔で、最も大きい庚申塔には寛政十二年の銘が残されている。

 この新田原集落センター前を通る古道は児玉党富田氏の館跡と伝えられる、西富田の本郷にある「堀ノ内」(※1)に向かい、宥宝寺西北裏に抜けていたのではあるまいか(※2)。

※1 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 pp.657-60参照
※2 『本庄市史』は、末広町の伊丹堂集落の南に通じていたとするが、この道が西五十子・北堀地内では藤岡通りとも呼ばれており、また、伊丹堂から先の鎌倉街道の伝承は、今日、残されていないとされていることから判断すると、宥宝寺西北裏から今井方面に抜けていた可能性が高いように思うのである(本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 p.800参照)。

◆西富田宥宝寺西北裏三叉路に建つ石造物群

欠損したものも含め、庚申塔・馬頭観世音塔など11基ほどの石造物を確認できる。庚申塔・馬頭観世音塔は近世に入ってから建てられたものがほとんどなので、それらの石造物がたたずむ道が近世の道であることを示すにすぎないが、近世の道が先行する時代に整備されたものである場合も多々あると思われるので、庚申塔などの石造物は中世の道を探るうえでの参考資料ともなるのではあるまいか。

 石造物に向かって右が七本木の古新田方面に通じる道であるが、こちらは主として烏川や利根川の渡河点を目指す道であったのではないかと思われる。そして、左側は今井方面に通じる道であるが、神流川の渡河点を目指す場合には主としてこちらの道が使われることが多かったように思われる。

◆今井山長興寺

西富田宥宝寺西北裏三叉路で分岐する左側の道はまず、西今井の今井山長興寺に通じていたように思われる。そして、明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、宥宝寺裏から今井方面に進むと途中で七本木本郷の方向に分岐するいくつかの道を確認できる。これらの道のいずれかが、旧岡部町の榛沢付近で゛藤岡街道゛とも“鎌倉裏街道”とも呼ばれていた道と考えてよいのではあるまいか(※1)。

  長興寺山門脇の碑に刻まれた「今井山長興寺縁起」によると、長興寺は承久3年(1221)、児玉党今井庄三郎行家によって創建され、開山は上州世良田長楽寺から招請した栄朝であるという。延元2年(1337)の薊山・安保原合戦で北畠顕家率いる南朝軍の本陣となり、足利勢の兵火にかかって諸堂宇が焼失したとする(※2)。

  この長興寺で注目されるのは、鎌倉時代末から南北朝頃の製作と推定される善光寺式阿弥陀三尊像が残されていることである。『本庄市史』によると、長興寺の阿弥陀三尊像は善光寺式三尊によくみられる金銅仏ではなく、寄木造の木彫像である。中尊の阿弥陀如来立像の像高が133cm、両脇侍のうち観音菩薩立像の像高が96cm、勢至菩薩立像の像高が87cmで、木彫像としては広島県安国寺蔵の三尊像(重文)に次ぐ大きさであるという(※3)。

  牛山佳幸氏によれば、善光寺式如来像を本尊とする「新善光寺」の大部分は、「幹線道路沿いや主要道の交差する十字路に面した地などの陸上交通の要衝、あるいは大河の渡河点や津泊に臨む地などの水上交通の要地、さらには京・鎌倉や地方では府中のような、商業交易の繁栄していた都市的な場」に立地していたという(※4)。長興寺が「新善光寺」的な性格をもつ寺であったかどうかについて検討を加える必要があるとはいえ、陸上交通の要衝といえるような比較的交通量の多い場所に立地していたことを示唆するものとして注目される。

※1 この“鎌倉裏街道”の七本木本郷から先の道筋については、現在の上里町長浜で神流川を渡り、藤岡市を経て群馬県下仁田町に至る、近世においては“上州姫街道”とも呼ばれた道筋と重なるのではないかと思われるが、これについては《Ⅳ.下児玉と長浜下郷を結ぶ道》で考察することにしたい。
※2 北畠顕家に係わる伝承については、本庄市四方田の産泰神社(金鑽神社)や旧児玉町下浅見地区の鷺山にも残されている。産泰神社や鷺山に残る伝承については、《Ⅳ.下児玉と長浜下郷を結ぶ道》のなかで、触れることにする。
※3 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅱ』 1989 pp.134-38参照
※4 牛山佳幸 「鎌倉・南北朝期の新善光寺(上)」『寺院史研究』第6号 2002 
 

◆下真下の馬頭観音堂と坂本家墓地

長興寺から先は、真下氏館の推定地のある下真下の小字「石橋」に通じていたのではあるまいか。現在の本庄総合公園のシルクドーム付近で身馴川を渡河し、浅見山丘陵・下浅見・蛭川を経て下真下方面に延びてくる古道(この古道については《Ⅱ.東本庄と小浜を結ぶ道》で詳述する予定です)とこの石橋付近で交差し、さらには(真下氏館のもうひとつの候補地が上真下の小字「東」にある(※1)ので)九郷用水北流沿いに上真下方向に進み、正楽寺の南側を通って八日市方面に向かっていた可能性があるように思うのである。

  左の写真は、旧児玉町下真下の小字「石橋」の西に位置する「平塚」に建つ観音堂を撮影したものである。田島三郎氏が『児玉の民話と伝説』で紹介している伝承によると、壇の浦の戦いで斃れた愛馬のたてがみを真下太郎が持ち帰り、馬頭観音として祀ったものであるという(※2)。

  真下氏については、治承4年(1180)8月の石橋山合戦に参加した後、京都に逃れ篠原合戦で討ち死にした武士として真下四郎重直の名が『平家物語』に見える(※3)。重直が長井斎藤別当実盛などとともに平氏方として登場していることを考えると、真下氏は児玉党のなかで庄氏一族に対して一定の独立性を保持していた可能性もあるのではあるまいか。

 下に掲載したのは真下氏の子孫と伝える坂本家の墓地の写真で、観音堂のある下真下共同墓地の南東の一角にある。中央に見えるのが真下左京亮源義政の宝篋印塔で、その右側の墓塔には、薊山合戦で討ち死にし、平塚の地に葬られたとする(※4)真下春行の刻銘が残されている。

※1 雉岡恵一 「南北朝・室町時代の児玉地方の武士」『神泉村誌』 2005 p.90参照
※2 田島三郎 『児玉の民話と伝説』上巻 1984 第38話「真下の馬頭さま」参照
※3 『平家物語』巻第7「篠原合戦」参照
※4 児玉町史編さん委員会ほか編 『児玉町史』中世資料編 1992 所収の「伝書之事」(同書p.512)参照

◆下真下の金佐奈神社

馬頭観音堂からは北東の位置に鎮座する、下真下の金佐奈神社の現況写真である。鳥居の脇に掲げられた由緒書によると、下真下金佐奈神社の旧社地は現在地から西北に1kmほど行った、小字「金佐奈」(※)の地にあったという。昭和17年、陸軍児玉飛行場の開設にあたって現在地に遷座されることになったのである。

  2万分の1迅速図「本荘驛」を見ると、久城方面から延びてくる賀美・旧児玉郡境の古道がこの金佐奈神社の旧社地の北方を通っていたことがわかる。このうち、賀美・旧児玉郡境を通る道は、その起源が古代に遡る可能性があるのではあるまいか。というのは、小字「金佐奈」に接する「将監塚」および「古井戸」(現在の「共栄公園」周辺の小字名と思われる)の地には、発掘調査によって古代の大溝や古代集落の存在したことが指摘されており(※)、賀美・旧児玉の郡境に、古代・中世においてそれなりの交通量を有する古道が存在したのではないかと思われるからである。
 管理人の恣意的な臆測にすぎないと叱られるかもしれないが、上真下を経由して八日市熊野神社の南方に出る道とは別に、賀美・旧児玉郡境を走るこの古道の経路を一部なぞって八日市熊野神社の前に出る、もう一つの(より古い)道があったのではあるまいか。

※ 岩瀬譲 「将監塚・古井戸遺跡の大溝について」 埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第71集『将監塚・古井戸―歴史時代編Ⅱ―』 1988 所収

◆八日市熊野神社

下真下から八日市熊野神社前に至る道の経路を特定するのは、難しい。

 明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」及び「藤岡町」を見ると、下真下の金佐奈神社旧社地の北側から現在の丹荘保育所辺りに通じる古道を確認できるので、この道をたどって右折し八日市熊野神社に向かう経路が一つの候補にはなるかと思われる。(ただ、このルートは八日市集落が成立してからの経路であろうから、それ以前は別の経路であったかもしれない。)
 九郷落しの開鑿に伴って、真下氏が上真下に館を築いてからは上真下を経由して熊野神社前に出る道も利用されたと考えられるが、それ以前には、賀美・旧児玉郡境を走るこの古道の経路を一部なぞって八日市熊野神社の前に出る、もう一つの(より古い)道があったようにも思われる。
説得力のない推測を並べ立てて恐縮だが、いずれにせよ現在の八日市熊野神社の南側を通る道につながっていたように思うのである。

  八日市熊野神社は,延喜式内社である「今城青八坂稲実神社」の論社に挙げられている(※1)。小字「今城」の地から現在地に遷座されたと言い伝えられている(※2)ことから、素人考えではあるが、この神社が「今城青八坂稲実神社」である可能性は高いように思われる。ちなみに、「今城」は(『本庄市史 資料編』付図の「九郷用水関係町村全図」などをもとに推定すると)現在の丹荘保育所の南方辺りを指す小字名のようである。

 そして、この熊野神社の南側を通る古道は、九郷用水の方向に進んで植竹の小字「猿楽」に残る姫塚の前に通じていたのではあるまいか。

※1 神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.593-94参照
※2 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.367参照

◆姫塚に残る墓塔

神川町植竹字猿楽に「姫塚」という古塚があって、その東南麓に残る墓塔である。地元の神川町植竹地区に残る伝承では、永禄年間に八幡山城が北条氏に攻めたてられた際に、城から逃げのびてきて息を引き取ってしまった姫の霊を弔うために建てられた墓碑であるという(※1)が、遺存する五輪塔に残る紀年銘が永禄期とかけ離れた古い年代を示していることなどを考えあわせると、この伝承は永禄期よりももっと古い時代の事件を反映したものである可能性が高いように思われる(※2)。

※1 柳 進編 『県北の伝承と民俗』 1976 p.90参照
※2 詳しくは、拙稿「挫折と転進と ―宝徳・享徳期前後の大石氏の動向を探る―」 『歴史研究』第608号 2013 参照

◆中新里城跡に残る東城稲荷

中新里城跡に残る東城稲荷の現況写真である。

 九郷用水右岸の中新里地区に中世の城が存在したことについては、中新里地区に「東城」「北城」「南城」などの小字名が残されているほか、明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1迅速測図「藤岡町」に城跡らしきものが記されていること、『新編武蔵風土記稿』にも砦跡としての記載があることなど、いくつかの傍証がある。東西約300m、南北約240mの城跡で、『神川町誌」では「安保氏館を凌ぎかねない規模を持ち、平地にある城館跡としては児玉郡内でも有数の規模を誇る」としている(※1)。

 宇高良哲氏が紹介した日叙筆『仁王経科註見聞私』奥書に
  …而ルニ其年ノ冬ノ時分ヨリ相州ノ館様(氏康)出張ヲモヨヲシテ明ノ年二月ニ武州□□至リ、金鑽山ノ近辺ニ御嶽トテ明誉ノ山城マテ数千騎ヲ卒シテ責入、… (※2)
 というくだりがあるが、虫損(□□)の部分の後の□は、(素人の解釈なので的外れかもしれないが)「里」と読むこともできるように思われる。仮に「里」と解釈できるのであれば、北条氏康の軍勢が金鑽御嶽城を攻めるために集結した「里」という地名が付く地点ということでは、(金鑽御嶽城との距離も考慮して)「新里」という地名がまず浮かぶ。
  また、このくだりの5行後の「河西ノ衆ハ一同ニ相州ニ帰シテ那波ニ合力、」の後には当初、「俄ニ新里ニテ」(※3)という6文字が書かれていた。墨で消去線が引かれたこの6文字を生かして、日叙の当初の文章を復元してみると、この部分は「河西ノ衆ハ一同ニ相州ニ帰シテ那波ニ合力、 俄ニ新里ニテ 上州ノ上杉殿ハ乱行無道故ニ御馬廻リ衆裏懸テ 相州ト一和シテ屋形様ヲ取ノケ奉ル …」というものであったように思われる。とすれば、御嶽攻城戦が行われた天文21年(1552)の時点で、北条氏康は新里に大勢の軍勢を集結させていたと考えてもよいのではないかと思われる。管理人は、この中新里の地には、九郷用水の水利を押さえるような有力な一族の館がすでに南北朝期の頃から存在していたのではないかと考えているが、氏康は浄法寺など神流川対岸での作戦の展開も考慮して、上州に通じる要路に臨む中新里の地を軍勢の集結地として選んだのではあるまいか。

※1 神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.563-65参照 
※2 宇高良哲 「安保氏の御嶽落城と関東管領上杉憲政の越後落ち」 『埼玉県史研究』第22号 1988 参照 
※3 「俄ニ新里ニテ」と解釈したが、素人の解釈なので間違っている可能性もある。その場合は、ご容赦をお願いする。

◆中新里諏訪山古墳



中新里城跡のすぐ北を東西に走る古道を西進すると、諏訪山古墳に突き当たる。

 神川町教育委員会が設置した説明板によると、中新里諏訪山古墳は全長42mの前方後円墳(前方部の幅:約27m、後円部の径:約26m)である。横穴式石室を有し、土器・埴輪のほか、馬具・直刀・勾玉などが出土したと伝える。6世紀中頃の築造で、この地域の首長の墓と推定されている。

◆旧知善院跡に建つ観音堂と石造物群

中新里諏訪山古墳の裾を巡る道をそのまま西進すると、貫井の旧知善院(龍水山観音寺)跡に建つ赤紫のお堂が見えてくる。

  このお堂の正面には「馬頭観世音」の額が掲げられており、また、東南角には庚申塔や庚申供養塔、道祖神などの石造物が残されている(下の写真参照)。庚申供養塔のひとつに「元文丑庚」の刻銘があることなどから、このお堂の南側を通る古道は武州と上州を結ぶ生活道路として、18世紀に入ってなお機能していたものと思われる。
  智善院は、明治期に入ると、無檀家・無住職の寺院は廃するという政府の方針によって廃寺になったようである(※)。

※ 神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.915-16参照


◆小松神社


旧観音寺跡の南側を通る道をそのまま南西に進んで、小松神社の方向に向かう。

  鳥居横に掲げられた「小松神社御由緒」によると、小松神社は古くは火宮明神と呼ばれていたが、天文年間(1532~55)に上州平井城主上杉憲政の臣、小松大膳がこの地に寓居した際、高祖の平重盛卿(小松公)を合祀し、社号を「小松神社」に改めたという(※1)。

  近世においては、火宮山小松院神流寺という本山修験の寺院が小松神社の別当を務めていたが、明治初年に廃寺になった(※2)。境内の西南に残る「御嶽山座王大権現」「大峯山上大権現」などの碑(下の写真参照 ※3)は、この神社が修験道とかかわりの深い神社であったことを偲ばせるものと言えよう。



※1 『藤岡市史』は、上日野の小柏氏について、(平重盛の子である)「維盛が武蔵国司の時に妾腹に生ませた維基を始祖としており、…(中略)…。維基は源平の大乱の後、鎌倉幕府を憚って上野国小柏(藤岡市上日野地区小柏)に隠れ、重盛から伝わる小松姓を小柏に変えた」とする「小柏氏系譜」を紹介している(藤岡市教育委員会編 『藤岡市史』通史編(原始・古代・中世)』 2000 pp.331-32参照)。「小柏氏系譜」の記述を信じれば、火宮明神の社号を改めたとする「小松大膳」は、中世において上州上日野地方に根を張った小柏氏と係わりのある人物なのではあるまいか。
※2 この神流寺は、御嶽山見晴台南方直下にあった京都聖護院末法楽寺の支配を受けていたようである(神川町教育委員会ほか編 『神川町誌』 1989 pp.915-16参照)。
※3 ただ、「御嶽山座王大権現」は御嶽三柱大神の一つとして(「三笠山刀利天宮」「八海山大頭羅神王」とともに)御嶽信仰において重要視されているようなので、これらの碑は御嶽信仰の信者によって建てられたものかもしれない。

◆神流川渡河点付近の現況写真

左岸の藤岡市牛田側から撮影した写真である。写真の中央部に、右岸の埼玉県側から対岸の群馬県側に延びる一筋の盛りあがった部分が見えるかと思う。これは、右岸の神川町新宿地内にある寄島で取水した神流川用水の水を、群馬県側に分水する導水管である。

 明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1迅速測図「藤岡町」を見ると、小松神社の立地する地点から西方に進んだ後、神流川の河川敷に形成された中洲らしきものを横切って対岸の牛田に通じる「村道」を確認できる。写真に見える導水管のやや上流の地点、現在、日帰り温泉施設「かんなの湯」が立地している地点に向かって100mから200mほど遡った辺りから対岸の牛田工業団地の南端辺りへと至る線が、中世以来の神流川渡河ルートであったのではあるまいか。

  山内上杉氏の居城があった藤岡市西平井に、三嶋神社という、15世紀後半の創建と思われる社がある。関東管領であった上杉顕定が伊豆三嶋大社から分祀し、平井城の氏神として祀ったとされる神社で、毎年11月14日には秋の大祭の前夜祭として夜祭りが開催されている。(これは、藤岡市牛田地区で古道の調査をしているときに、管理人が住民の方から伺った話であるが)1960年頃までは、この三嶋神社の夜祭りが近づくと、牛田と小浜の住民が1年交替で渡河ルート上にある神流川の瀬に板の仮橋を架けて、通行人の便に供していたそうである。この架橋作業がいつごろから始まったものなのか不明ではあるが、仮に西平井三嶋神社の創建当初に遡るとすれば、興味深い話ではある。

 

◆医光寺の延慶三年銘板碑

藤岡市牛田の医光寺に残る延慶三年(1310)銘結衆板碑である。「明治時代の末ごろ、医光寺のすぐ東を流れる神流川の土中から発見され、現在地に移された」とされており、藤岡市内に残る板碑の中では最大のものであるという(※1)。

  発見された場所である「医光寺のすぐ東を流れる神流川の土中」が、具体的にどの地点を示すのかは不明である。ただ、、陸地測量部発行2万分の1迅速測図「藤岡町」を見る限りでは、小浜から牛田に至る間の神流川河川敷内に大きな中洲のようなものが形成されているので(中世においてもこのような中洲が存在していたとすれば)、河川敷内の渡河ルート沿いにこの板碑が設置されていたというような可能性も想定しうるのではあるまいか(※2)。

※1 藤岡市教育委員会編 『藤岡市史』通史編(原始・古代・中世) 2000 p.400参照
※2 (強引な推論という謗りは免れないとも思いますが、ひとつの見方として受けとめていただければ幸いです。)これについては、拙稿「上州・武州境における中世の道を探る」(『歴史研究』第626号 2014 所収)も併せてご参照ください。

 



 
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