◎北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて ●●●●

  <旧児玉郡と那珂郡の境界部を流れてきた身馴川は、美里町沼上地区にさしかかる辺りから栗崎にかけては旧児玉郡内を流れ、栗崎を過ぎると東五十子辺りに至るまでは(河道の変遷があって不明な部分があるものの)おおむね旧児玉郡と榛沢郡の境界部付近を流れていたものと思われます。
 本サイトでは、(身馴川が那珂郡と旧児玉郡の境界部を離れて旧児玉郡内を流れるようになる)美里町沼上付近から東五十子辺りまでの身馴川について中世における渡河点がどこにあったのかを探り、その渡河点から(児玉地方と西上野や信濃をつなぐメインの渡河点であったと思われる)神川町小浜の神流川渡河点に通じる古道、および(旧岡部町の榛沢辺りで“鎌倉裏街道”とも“藤岡街道”とも呼ばれる)上里町七本木を経て神流川渡河点である同町長浜に至る古道の経路がどのようなものであったのか、について検討を加えてみることにします。その土地土地に残る伝承や石造物などの遺物を手掛かりにした、多分に恣意的な推論が目立つものとなりそうですが、お付き合いいただけましたら幸いです>


   中世における身馴川渡河点を明確に示す資料は残されていないが、北条氏邦が天正八年(1580)に発給したとされる、次のような文書(※)がある。

塩荷可押所定事

栗崎・五十子・仁手・今井・宮古嶋・金窪、かんな川境彷尒ニ可取之候、然者、深谷御領分榛沢・沓かけ幷あなし・十条きつて、しほ荷おさへ候事、かたく無用候、為其、重而申出者也、如件、
    猶、以半年者、忍御領分にて少も不可致狼藉候、以上、
     辰
      十二月朔日
         長谷部備前守

  これを見ると、榛沢郡・那珂郡から旧児玉郡に至る身馴川沿いの塩荷流通点として、「榛沢」「あなし」「十条」「五十子」「栗崎」の名が挙げられているのがわかる。戦国期の文書ではあるが、身馴川の渡河点がこの時期、これらの地名が示す地点の周辺にあったことを示す資料として考えてよいであろう。

  地域支配の中核となるような城の築城によってその地域の交通体系が大きく変容するというようなことは、容易に想像されるが、交通の障害ともなるような一定規模以上の河川の場合、一年を通じて人の渡渉や物資の運搬を可能とするような渡河点は限られていたように思われる。その意味で、両上杉氏によって五十子(いかっこ)の陣が設営されたり、あるいは鉢形城や雉岡城が築城・整備されたりする以前の身馴川の渡河点がどこにあったのかということを考える場合、その渡河点は、戦国期に発給された北条氏邦発給文書から推測されるような渡河点とさほど異なるものではなかったと考えてもよいのではあるまいか。

  そこで、このサイトの管理人(伊藤)の考える身馴川渡河点を、明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1地形図「本荘驛」も参考にしながら、いくつか提示してみることにしたい。

 

※ 児玉町史編さん委員会編 『児玉町史 中世資料編』 1992 p.279参照

◆渡河点その1―― 榛沢と西五十子を結ぶ線

榛沢の大寄八幡神社から西五十子の大寄諏訪神社に通じるルートに架かる橋である。北詰にも南詰にも橋の名が記されていないので、たまたま補修工事をしていた現場の責任者とおぼしき人に伺ったら、「冠水橋」という名前であると教えてくれた。

 中世においてこの地点に橋が架けられていたかどうかは、不明である。架けられていなかった可能性が高いのではないかと思われる。『本庄市史』に記載がないか確認してみたところ、この橋および男堀川に架かる橋を渡って左折し150mほど西に進んだ地点にある「舟出稲荷社」と榛沢の「舟着稲荷社」との間を舟で渡していたという所伝を紹介している(※)。

 また、この橋の50mほど下流に男堀川と身馴川の合流点がある。現在は大寄諏訪神社の摂社となっている西五十子金佐奈神社は、合祀前はこの合流点付近に鎮座していたという。

  

※ 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 pp.799-800参照 

◆ 渡河点その2―― 榛沢と北堀を結ぶ線

左側に見えるドーム状の建物は、本庄総合公園のシルクドームである。ドームの対岸には、旭コンクリート工業関東工場の敷地が広がっている。

 明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1地形図「本荘驛」を見ると、榛沢の大寄八幡神社の東側を通った後、左折して身馴川方面に延びる古道を確認できる。そして、この古道の身馴川到達点の対岸からは、東本庄稲荷神社付近を経て若泉稲荷神社の南側に通じる古道の存在を見て取ることができる。東本庄稲荷神社の東側に位置する、シルクドーム付近の小字名が「東河原」である(※)ことも考えあわせると、この道、すなわち、現在の旭コンクリート工業の敷地内を通って本庄総合公園のシルクドーム立地点に至るルートが、中世から近世にかけての身馴川渡河点のひとつであったと考えてよいのではあるまいか。

 

※ 本庄市史編集室編 『本庄市史 資料編』 1976 巻末の付図「九郷用水関係町村全図」参照

◆ 渡河点その3―― 後榛沢と栗崎を結ぶ線

栗前橋の下流200m付近の身馴川の現況写真である。

 明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1地形図「本荘驛」を見ると、後榛沢の新井から栗崎に向かって北西方向に延びてくる道が記載されている。そして、この道が身馴川に突き当たる辺りの対岸からは、栗崎館推定地の南側を経て宥勝寺の東側に延びる小道が確認できる。現状はどうかというと、栗前橋の下流200mほどの地点から栗崎館推定地の方向に延びる小道が確かに存在しているので、栗前橋のすぐ下流に後榛沢と栗崎を結ぶ渡河点があったのではないかと思われる。

 写真の左側中央部やや上の部分に、欄干を白く塗られた栗前橋が見える。

◆ 渡河点その4―― 小茂田・下児玉と対岸の塚本山を結ぶ線

明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1地形図「本荘驛」を見ると、九郷水系の矢堀と身馴川との合流点付近が渡河点となっている。

 現状で示すと、美里町上水道第二浄水場と対岸の塚本山丘陵(※)を結ぶ線が、その渡河点に相当するようである。現在でも、合流点付近に塚本山丘陵に登る古道が残っている(下の写真参照)が、この渡河点は、交通量がそれほど多くない、サブ的な渡河ルートではなかったかと思われる。

 

※ 浅見山(大久保山)丘陵の南側にある小丘陵を、美里町では塚本山丘陵と呼んでいるようである。


◆ 渡河点その5―― 小茂田と下児玉を結ぶ線

東橋の現況写真である。小茂田と下児玉を結ぶ渡河点に架けられている。

 (渡河点付近の現在の状況から推論するのは、あまり意味がないのかもしれないが)小茂田から下児玉へと抜ける、この渡河点付近は、下流の栗崎や西五十子付近、そして上流の十条熊谷付近と比べて、堤と河床の高低差が小さいように思われる。

 その意味で、小茂田から延びてきた古道が対岸にある二つの丘陵、つまり浅見山(大久保山)丘陵と生野山丘陵の間にある平坦部へと通じるこのルートは、榛沢郡と児玉地方を結ぶ、中世における身馴川の渡河点の一つであったようにも思える(※)。
 ただ、渡河点の付近に寺院や神社が見当たらないことに注目すれば、あるいは、身馴川右岸を北十条まで遡って、そこから対岸に渡るというのがより一般的な渡河ルートであったのかもしれない。

※ 東橋は、現在の県道、蛭川-普済寺線が身馴川と交差する地点に架かる橋である。明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1地形図「本荘驛」を見ると、蛭川-普済寺線のうち、蛭川から入浅見村東方に至る部分に道の記載はないが、入浅見村の東方からは小茂田村に通じる道としてしっかりと書き込まれている。その意味で、榛沢・小茂田から下児玉へと抜けるこの道は、中世まで遡ることができるかどうかは別として、それなりに歴史をもつ古い道であると思われる。

◆ 渡河点その6/その7―― 北十条と下児玉・下浅見を結ぶ2つの線

北十条と下児玉の川原崎地区を結ぶ地点に架かる十条河原橋である。

 明治18年測量の陸地測量部発行2万分の1地形図「本荘驛」を見ると、北十条の北向神社の西側から下児玉川原崎地区にある楊林寺の西側に延びる道が記されているので、北十条と下児玉川原崎地区を結ぶ渡河点は、左の写真に見える十条河原橋よりも200mほど下流の地点であったのではあるまいか。




十条熊谷橋





十条河原橋から400mほど上流に遡ると、北十条と下児玉の熊谷地区を結ぶ地点に橋が架かっている。十条熊谷橋と呼ばれるこの橋を北十条側から渡ると、50mほど進んだ左側に熊谷直実の遺骨埋葬地と伝える蓮生堂がある。

◎身馴川と神流川、渡河点と渡河点を結ぶ道

埼玉県立歴史資料館編集の『歴史の道調査報告書 鎌倉街道上道』(以下、『歴史の道調査報告書』と表記することにする。)は、現在の埼玉県美里町広木から旧児玉町に至る鎌倉街道上道の道筋について、広木集落の南方の旧254号線と交差する地点で二筋に分かれるとし、「交差点を西に曲がり、広木の集落の中を抜け、式内社と伝えられる𤭖●(みか)神社の西側を通り」榎一里塚に達する道と、「交差点を通らず広木の集落の北側を通り摩訶池の北側をめぐり、大町古墳群の中を抜けて一里塚に達する道」の2つのルートを紹介している。この2つのルートが榎一里塚で合流した後、身馴川を渡り旧児玉町の市街地方面に通じていたとするのだが、15世紀末頃ではないかと思われる雉岡築城以前においては、この経路とは異なる道筋をたどっていた可能性が高いのではあるまいか。

 「管理人」が思うには、15世紀末頃までは、『歴史の道調査報告書』にもう一つの鎌倉道として載せられている「本庄道」のほうが、むしろメインの街道であった可能性が高いのではあるまいか。実際にどのような経路をたどったのか見極めることは難しく推測の域を出ないが、川越岩で荒川を渡った後、「榛沢瀬」の道筋をたどって「本庄道」を 榛沢方面に向かい、途中で枝分かれしながら管理人が前項でその例を示したような身馴川渡河点に至る、“鎌倉街道の副道”的な役割を果たしていた道がいくつかあったように思うのである。

 交通史を専門とする研究者には採り上げるに値しない、おおざっぱな考察かもしれないが、これらの身馴川渡河点と(管理人が、中世にあっては児玉地方と西上野や信濃を結ぶ、神流川のメインの渡河点であったと考える)神川町小浜の小松神社西方神流川渡河点を結ぶ中世古道のいくつかの経路、および身馴川渡河点から上里町七本木を経て神流川渡河点の同町長浜下郷に至る(旧岡部町の榛沢辺りで“鎌倉裏街道”とも“藤岡街道”とも呼ばれる)古道の経路について、私見を述べていくことにしたい。(埼玉県児玉地方の地理に疎い方も多いと思いますので、農業環境技術研究所が提供している「歴史的農業環境閲覧システム」にアクセスしていただき、「熊谷」をクリックして児玉地方の迅速図を参照しながらご覧いただければ幸いです。)

inserted by FC2 system