北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  


Ⅳ.下児玉と長浜下郷を結ぶ道

<次に、北十条から下児玉に渡って北に延びる道をたどってみることにします>

北十条から下児玉へは、十条河原を渡って現在の川原崎地区に至る道と、現在の十条熊谷橋付近で渡河して熊谷地区に至る道の2つの経路があり、これらが北方の下浅見に向かって延びていたのではあるまいか。

 まず、川原崎地区から北に延びる道の経路を追跡し、次に熊谷地区から北に延びる道を探ることにする。そして、これらの道が最終的にどこと繫がっていたのか、地域に残る石造物や伝承などを手掛かりにしながら見極めていくことにしたい。

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◆十条河原の渡河点から谷昌山楊林寺へ

現在の十条河原橋から200mほど下流の地点が、渡河点であったのではないかと思われる。この渡河点から北に延びる道が、楊林寺の西側に通じている。

 谷昌山楊林寺は現在、臨済宗妙心寺派の寺院であり、近世においては広木村大興寺の末寺であった。『武蔵国児玉郡誌』には「開山高庵・十月十六日示寂とのみ伝えて年代詳ならず」(※1)とあるが、地元の方に伺ったところによると、楊林寺の旧地は下児玉中山地区の山根にあったという。一度ならず火事に遭遇したため、現在地に移転することになったと伝えられているというので、いつごろの火事なのかお聞きしたところ、はっきりした年代はわからないということであった(※2)。
 

※1 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927 p.405参照
※2 これは管理人の推測にすぎないが、楊林寺の旧地の西方にあたる、浅見山丘陵西南部にあった児玉党の菩提寺、西光寺が延元2年(1337)の薊山合戦で全焼したと伝えられている(『本庄市史 通史編Ⅰ』pp.669-670参照)こと、また、庄小太郎頼家の菩提を弔うために建仁年間(1201-1204)に建立された有荘寺が浅見山丘陵の東側の裾にあって、(境内に掲げられた説明板に拠ると)これも天文6年(1537)、北条氏と上杉氏の浅見山における合戦の際に堂塔を焼失していることなどから、下児玉中山地区の旧地にあった楊林寺もこれらの合戦の際に兵火に罹った可能性があるのではあるまいか。

【管理人から一言】 浅見山が戦場となった合戦は二つあるようです。一つは延元2年(1337)、西上してきた北畠顕家軍に、上州で挙兵した新田義興・義治、脇屋義治の軍勢が加わって足利軍と戦った戦いで、もう一つは天文6年(1537)に北条軍と上杉軍との間で行われた合戦です。前者は薊山合戦または薊山安保原合戦と呼ばれますが、真下氏も新田義興の軍勢として参戦したようで、「伝書之事」に拠れば真下春行が討ち死にしています。この時の合戦で、児玉党の菩提寺であったとも言われる西光寺が消失したと言われています。後者の合戦は前者ほど知られていないようですが、有荘寺が消失し、無住になったのはこの時とされています(宥勝寺境内に設置の説明版参照)。なお、「伝書之事」では、真下春行が討ち死にしたのは「延元元年十二月十四日」としていますが、「延元二年」の誤伝の可能性が高いようにも思われます。
 薊山合戦の戦場として浅見山が選ばれたことについては、十条河原が身馴川の渡河点であったことが関係しているのではないでしょうか。薊山合戦の際、四方田の金鑽神社(産泰神社)に兜を奉納したとされる北畠顕家が宿陣としたのが(浅見山にあった)西光寺であり、また、鷺山にはその際の南朝方の駐屯地となったことから「騒山」と呼ばれ、それが転訛して「鷺山」と言われるようになったという伝承を中英夫さんが紹介しています(中英夫著『武州下浅見誌』p.17、p.86参照)。また、中英夫さんが紹介している『児玉記考』(中山清夫編 明治33年3月風声堂刊)という本に「北は遠く利根川をひかえ東西南は田野にして防戦の勝地」との記載がある(私はまだ確認していません)ようですが、浅見山が南から進軍してくる足利軍を迎え撃つ好地だったことが、浅見山周辺が合戦の舞台となった一つの理由ではないかと思われます。実際に鷺山古墳の頂に立ってみると、(渡河点と思われる)十条河原付近がよく見えます。 延元2年の薊山合戦、天文6年の浅見山合戦、そして永禄4年(1561)に北条氏康軍と上杉政虎軍が矛を交えた生野山の戦いと、大きな合戦が浅見山や生野山の周辺で展開されているのは、現在の下児玉の金鑽神社や楊林寺の所在地周辺が身馴川の主たる渡河点のひとつであったことと無関係ではないように思われます。《この部分、2021年5月24日に追記しました》

◆‘西光寺’の地名が残る浅見山丘陵西南部の一角

明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、下児玉河原崎地区にある楊林寺の西側を通って北方の下浅見に向かう道が確認できる。左の写真は、この道に相当すると思われる現在の道から、浅見山丘陵西南部の一角を撮影したものである。

 浅見山丘陵西南部のこの辺りには‘西光寺’の小字名が残り、‘西光寺跡’と呼ばれる場所も存在するようである(※1)。西光寺は児玉党の宗家である庄氏の菩提寺であり、楊林寺の項でも触れたように、延元2年(1337)の薊山合戦で焼失したとされている(※2)。

 ‘西光寺’の地名が残る浅見山丘陵西南部は、170基ほどの群集墳から成る塚本山古墳群の末端に位置し、現在は早稲田大学の管理地になっている。

 

※1 中 英夫 『武州下浅見誌』 1985 中英夫著書刊行会(非売品)の裏見返し所載地図参照
※2 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 pp.669-670参照

◆‘西光寺跡’の北側に回り込む古道



楊林寺の西側を経て北方に延びる道をさらに北進すると、‘西光寺跡’の北側に回り込むかたちになる。

 この道を西北に進むと、《Ⅱ.東本庄と小浜を結ぶ道》で触れた、栗崎金鑽神社の北方から下浅見の成就院の南方に抜ける道と合流するので、西方に進むと蛭川から下真下方面に通じていたように思われる。

◆下児玉熊谷地区に建つ蓮生堂

次に、下児玉熊谷地区から北に延びる道を探ってみることにする。

 身馴川に架かる十条熊谷橋を美里町の北十条から下児玉の熊谷地区に渡って北に50mほど進むと、熊谷公会堂の裏手に「蓮生堂」と呼ばれる、小さなお堂が建っている。現在のお堂は平成25年に改築されたものだが、ここに熊谷直実の遺骨が埋葬されたとする言い伝えが残されている。

 直実終焉の地については、いくつか説があるようであるが、『武蔵国児玉郡誌』は、文化11年(1814)に京都黒谷金戒光明寺の勢至堂より十条熊谷の旧家下山氏に送られてきたとする「申送状」という資料を載せている。
 その「申送状」には、《蓮生法師御命終の後、十条の郷にて火葬す、その時直実公本領の家臣がニ、三人いたが、下山上総介直明はとりわけ忠義の士であって直実公の寵臣であった。愁傷のあまりに蓮生法師の御骨を十条の墳墓に埋め、分骨して黒谷の法然上人のもとに持ち来たり、直明が施主となって黒谷の大嶺に高さ八尺五寸の五輪塔を建て、その下に持参した蓮生の白骨の一分を埋め、残りを金戒光明寺の宝蔵に納めた。ところが、応仁年中の兵乱で一山が残らず没焼してしまったため、宝蔵に納めた蓮生の白骨も焼失してしまった。只々嘆かわしいことなので、十条の熊谷山蓮生院に葬ってある熊谷入道殿の御骨を再度分骨して当山の大師御廟所へ預けてほしい》、という趣旨の文章が書かれているので、興味のある方は、原文にあたっていただきたい(※1)。
 なお、2012年2月には、国立劇場における「一谷嫩軍記<熊谷陣屋>」の公演を控えた十二代目市川團十郎が、熊谷次郎直実ゆかりの地として、当地を訪れているそうである(※2)。
 

※1 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) pp.499-501参照
※2 『広報みさと』第38号「町長コラム」参照

◆下児玉の金鑽神社

蓮生堂の建つ場所から200mほど東の地点に鎮座する、下児玉の金鑽神社である。

 当社も、児玉地方に多く見られる、坂上田村麻呂伝説を残す神社のひとつである。『武蔵国児玉郡誌』は、延暦年間における蝦夷討征の際に坂上田村麻呂将軍が当地に来たりて、身馴川に住む大蛇を退治せんと当社に祈願したところ、霊験ありて大蛇を退治することができたとする口碑の存在について触れている(※)。

※ 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) pp.342-43参照

◆(金鑽川・赤根川水系)矢堀の屈曲部

蓮生堂の前に戻って、その脇から北に延びる道を下浅見方面に向かうことにする。

 蓮生堂から500mほど北に進むと、金鑽川・赤根川水系に属する矢堀の屈曲部(左の写真参照)に突き当たる。
 明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、この矢堀屈曲部の北側は、十条熊谷から下浅見八幡神社に向かう道と、(《Ⅲ.栗崎と小浜を結ぶ道》で触れた)下児玉中山地区の山根から入浅見観音堂前に通じる道とが交差する場所となっている。推測するに、この辻で左折し、雉が岡から新里を経て小浜の神流川渡河点を目指す旅人もあったのではあるまいか。

 なお、矢堀がこの地点において窮屈な形で鋭角的に曲がっているのは、西から延びてきた用水堀が鷺山古墳のある小丘陵に行く手を遮られ、下児玉の中山に向かって真っすぐに掘り進むことができなかったことによるものと思われる。

◆鷺山古墳遠景

矢堀の屈曲部の脇を通って北に進むと、鷺山古墳のある小丘陵に突き当たる。

 鷺山古墳は全長約60mの前方後方墳で、撥型に開く前方部をもち、底部に穿孔のある壺型土器などが出土していることから、4世紀半ば以前の築造と推定されている(左の写真は北側から撮影)。埼玉県内では、熊谷市の塩古墳群などとともに最古級の前方後方墳と考えられている(※1)。

 『武蔵国児玉郡誌』は、延元2年(1337)に北畠顕家が奥州より南下して京に向かう際、上武の境にある利根川を渡って下浅見に至り「騒ぎ山」と称する一丘陵に駐屯したとするが、この「騒ぎ山」とは、現在の鷺山古墳の地にほかならないようである(※2)。

 

※1 本庄市教育委員会 『本庄市の遺跡と出土文化財』 2016 pp.12-13 参照
※2 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.346参照

◆下浅見の八幡神社

鷺山古墳のある丘陵を東側に回り込むと、下浅見八幡神社の北側に出る。

 『武蔵国児玉郡誌』によると、当社は、児玉党の浅見太郎実高が文治5年(1189)、源頼朝の奥州征伐に従軍した際に、鶴岡八幡宮に祈願し戦功を立てることができたので、帰陣のときに同宮の分霊を遷して当地の産土神としたと伝えられているという。また、延元2年(1337)に北畠顕家が奥州より南下して京に向かう際に、上武の境にある利根川を渡り下浅見に至って当社に戦勝を祈願したとされる(※)。

 社殿は、小字「矢地」を間において、西光寺があったとされる浅見山西南部丘陵と向き合っている。(下の写真は、八幡神社の北側にある成就院から八幡神社に通じる参道に設置された大鳥居を撮影したものである。)
 

※ 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.346参照

 

 明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると八幡神社から北に延びる道があって、この道を北進すると、《Ⅱ.東本庄と小浜を結ぶ道》で触れた、栗崎金鑽神社の北方から下浅見の成就院の南方に抜けてくる道と突き当たる。突き当たった道を西にたどると蛭川を経て下真下方面に向かうことになると思うが、東に折れた道は、(先に触れた)‘西光寺跡’の北側に回り込んで西方に延びてくる古道と合流して四方田方面に通じていたように思われる。以下、この道の行方を探ってみることにしたい。

◆仏徳山光明寺

下浅見から北に進んで四方田に入ると、小字「宮西」の南方に出る。この「宮西」は「堀ノ内」とも呼ばれる地域で、内堀や外堀の一部が残り、中世武士館の所在地と推定されている(※1)。

 仏徳山光明寺(※2)は、この館跡の西部にある。臨済宗妙心寺派の寺院で、現在は美里町広木にある大興寺の末寺になっている。

※1 『本庄市史』では、四方田の「堀ノ内」に残る館跡は、庄権守弘高または四方田七郎高綱の居館跡ではないかとしている(本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 pp.660-63参照)。
※2 明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」には「真福寺」と記載されているが、「光明寺」の誤りと思われる。





 左の写真は、光明寺の東側に残る内堀跡を撮影したもので、北側の外堀に続いている。

◆四方田の金鑽神社(産泰神社)

金鑽神社は、「堀ノ内」の東方に鎮座している。合殿の産泰神社は安産の神様として知られ、毎年、4月4日の例祭日には近在からの安産祈願の参詣客で賑わうという。

 当社は、児玉党の支族四方田五郎左衛門資綱がこの地に城砦を築いたときに、守護神として勧請したものであるとされ、延元2年(1337)の薊山合戦の際には、当社に戦勝を祈願して勝利を得ることができた北畠顕家が、兜を奉納したとも伝える(※)。

※ 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) pp.335-36参照

◆東橋北詰の庚申塔

四方田の「堀ノ内」の南方に出た古道は、金鑽神社の西側を通り、北方の西富田に向かっていたように思われる。
 四方田から西富田に通じる道を北進すると女堀川に突き当たるが、左の写真は、その女堀川に架かる東橋の北詰近くに建つ庚申塔を撮影したものである(※)。

 この道を真っすぐに進むと西富田金鑽神社の社前を経て烏川、さらには利根川の渡河点に通じていたのではないかと思われるが、本稿のテーマからは外れるので、この道の追跡には踏み込まないことにする。
 神流川の渡河点に至る道筋としては、東橋を通過した後、さらに200mほど進んだ地点で左に折れ、現在の西富田自治会館の南側を経て宥宝寺の北側に出る道がひとつの候補になるのではあるまいか。

 

※ いちばん左の庚申塔には「嘉永三歳」の紀年銘が残されている。

◆稲荷山宥宝寺



稲荷山宥宝寺の創立年代は不詳。栗崎宥勝寺の末寺で、現在は真言宗智山派の寺院である。

 『本庄市史』によると、児玉党の富田三郎親家の館は西富田の「堀ノ内」にあったとされ、宥宝寺からは児玉新道を隔てて南東に位置する一角が館の中心部であったと推定されている(※)。 

 

※ 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 pp.657-60参照

◆西富田宥宝寺西北裏三叉路に建つ石造物群

欠損したものも含め、庚申塔・馬頭観世音塔など11基ほどの石造物を確認できる。庚申塔・馬頭観世音塔は近世に入ってから建てられたものがほとんどなので、それらの石造物がたたずむ道が近世の道であることを示すにすぎないが、近世の道が先行する時代に整備されたものである場合も多々あると思われるので、庚申塔などの石造物は中世の道を探るうえでの参考資料ともなるのではあるまいか。

 石造物に向かって右が七本木の古新田方面に通じる道であるが、こちらは主として烏川や利根川の渡河点を目指す道であったのではないかと思われる。そして、左側は今井方面に通じる道であるが、神流川の渡河点を目指す場合には主としてこちらの道が使われることが多かったように思われる。

◆東今井の小公園に残る庚申塔



宥宝寺西北裏三叉路を今井方面に進むと、上越新幹線の高架と交差する少し手前でブランコの設置されている小公園に突き当たる。

 左の写真は、この小公園の東の隅に残る庚申塔を撮影したものである。この庚申塔の前を通る道は、松原郭(小字名)を経て西今井の長興寺の北側に出ていたように思われる。

◆松原郭の石造物群



前項の小公園の前を通る道を長興寺北裏の方向に進み、「松原郭」と呼ばれる小字内に入ると、稲荷や庚申塔などの石造物群が道路の北側に建っているのに気づく。

 左側にある2つの御神燈の背後に見えるのは稲荷の祠で、左の祠には「昭和廿三年四月吉日 松原郭一同」と刻まれていることから、稲荷の祠自体は建てられてからそれほど年月が経過していないようである。右端の庚申塔は近世に建てられたもので、「寛政十二年庚申十一月」の刻銘が残されている。

◆今井山長興寺

今井山長興寺山門脇の碑に刻まれた「今井山長興寺縁起」によると、長興寺は承久3年(1221)、児玉党今井庄三郎行家によって創建され、開山は上州世良田長楽寺から招請した栄朝であるという。延元2年(1337)の薊山・安保原合戦で北畠顕家率いる南朝軍の本陣となり、足利勢の兵火にかかって諸堂宇が焼失したとする(※1)。

  この長興寺で注目されるのは、鎌倉時代末から南北朝頃の製作と推定される善光寺式阿弥陀三尊像が残されていることである。『本庄市史』によると、長興寺の阿弥陀三尊像は善光寺式三尊によくみられる金銅仏ではなく、寄木造の木彫像である。中尊の阿弥陀如来立像の像高が133cm、両脇侍のうち観音菩薩立像の像高が96cm、勢至菩薩立像の像高が87cmで、木彫像としては広島県安国寺蔵の三尊像(重文)に次ぐ大きさであるという(※2)。

  牛山佳幸氏によれば、善光寺式如来像を本尊とする「新善光寺」の大部分は、「幹線道路沿いや主要道の交差する十字路に面した地などの陸上交通の要衝、あるいは大河の渡河点や津泊に臨む地などの水上交通の要地、さらには京・鎌倉や地方では府中のような、商業交易の繁栄していた都市的な場」に立地していたという(※3)。長興寺が「新善光寺」的な性格をもつ寺であったかどうかについて検討を加える必要があるとはいえ、善光寺式三尊の存在は、長興寺が陸上交通の要衝といえるような比較的交通量の多い場所に立地していたことを示唆するものとして注目される。
  

※1 『本庄市史 資料編』に付図として添付されている「九郷用水関係町村全図」を見ると、現在の長興寺周辺には「長興寺境内付」および「塔頭」という小字があるのを確認できる。両方を合わせるとかなりの面積に及ぶと考えられるので、中世において長興寺はいくつかの子院を備える、比較的大きな寺院であった可能性が高いとみてよいのではあるまいか。
※2 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅱ』 1989 pp.134-38参照
※3 牛山佳幸 「鎌倉・南北朝期の新善光寺(上)」『寺院史研究』第6号 2002 

◆今井の金鑽神社

長興寺の西南に鎮座する神社である。『武蔵国児玉郡誌』によると、寿永年間、児玉党の今井太郎兵衛行助がこの地に在住して、居館の乾の方(北西)に当社を勧請したという(※1)。

 今井地区に「堀ノ内」の伝承地はないが、『本庄市史』によれば、昭和57年に児玉工業団地の取付道路線内にかかる埋蔵文化財の発掘調査が行われた際に、当社の参道入口から南に通じる道路と同じ方向に、直角に折れる堀跡が発掘されたそうである(※2)。

※1 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.347参照 
※2 本庄市史編集室編 『本庄市史 通史編Ⅰ』 1986 pp.667-69参照

 金鑽神社の参道入口から南に向かって進んだ後、右に折れて今井氏館の推定地の南側を通り、南西方向に向かう道は、下真下の小字「石橋」に通じていたものと思われるが、この道の、神川町小浜に至るまでの経路については、《Ⅰ.西五十子と小浜を結ぶ道》で考察したので、ここでは省略する。

◆西今井の庚申塔

埼玉県立歴史資料館編集の『歴史の道調査報告書 鎌倉街道上道』は、旧岡部町針ヶ谷辺りで「鎌倉裏街道」、榛沢辺りで「藤岡街道」と呼ばれる古街道の存在に言及し、この古街道は「榛沢の集落南端で、榛沢成清の勧請伝説を持つ大寄八幡の東側を通り、そこから大きく西方にカーブして小山川を渡り、本庄市北堀から西富田を経て上里町七本木辺りに出て藤岡方面に向かった」と伝承されているとしている(※1)。

 西富田を経て七本木に向かっていたのであれば、交通の要衝ともいえる今井を、今井のなかでも特に、今井氏館の推定地付近にある今井金鑽神社周辺を経由していたのではないか思われる(※2)。
 そこで、今井金鑽神社周辺から北西方向の七本木方面に延びる古道の経路を探ってみることにしたい。

 中世において、金鑽神社周辺の西今井から「上久城」に至るルートとして、長興寺の北側を通る道をそのまま西に進んだ後、右に折れたのか、それとも長興寺の西方で右折した後、北に進んで「大宮郷道」(※3)との辻を左に折れて「上久城」に至ったのかは、判断がつかない。ただ、長興寺の西方で右折した後、北方に200mほど進むと、道路の左側に庚申塔が建っている(左上の写真参照 ※4)。これより判断すると、近世に入ってからは、後者の経路をたどる人が多かったように思われる。

※1 埼玉県立歴史資料館編 『歴史の道調査報告書第1集『鎌倉街道上道』 1983 p.65参照
※2 天正八年(1580)に北条氏邦が発給した「塩荷可押所定事」という文書に、「今井」の名が「栗崎」「五十子」などとともに見えているので、今井の地は中世において、上武国境地方における交通の要衝のひとつであったと思われる(児玉町史編さん委員会編 『児玉町史 中世資料 編』 1992 p.279参照)。
※3 「大宮郷道」は、本庄宿と八幡山、さらには秩父大宮郷を結ぶ道として、近世に整備されたものと考えられる。始点から終点までのすべてが新規に開鑿された道路とも思われないので、中世からすでに存在した古道を拡幅するなどして整備した部分もあったのではあるまいか。
※4 向かって右側の庚申塔には紀年銘が刻まれていないが、庚申講の本尊である「青面金剛」の文字を刻んだ左側の石造物には「萬延元年冬十一月」の銘が裏面に残されている。

◆嘉美神社

長興寺の北側を通る古道は、上久城に入り、さらに現在の嘉美神社の東側を通る道をたどって、七本木の本郷(もとごう)に向かっていたのではあるまいか。

 嘉美神社は古くは熊野神社と称したが、明治四十三年(1910)に字上久城の村社天神社・字中久城の村社皇大神社・字下久城の村社天神社の三社を合祀し、社号を嘉美神社に改めた(※1)。応永10年(1403)銘の石仏が存在したということだが、現在は所在が不明であるとする。また、江戸時代に現在地への社殿の移転があったが、旧社地がどこであったかは明らかでないという(※2)。

※1 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.367参照 
※2 境内に掲示された由緒書きに拠る。

◆立野の石造物群


嘉美神社の東側を通る道を七本木本郷の方向に進むと、道路の右側に石造物が3基建っているのに気づく(上の写真参照)。

 いちばん右側の石仏は、(石仏には詳しくないので間違っているかもしれないが)如意輪観音であろうか。「明和元甲申」の刻銘が残されている。
 中央の石造物は、「文政十二年己丑」の銘の残る“庚申塔”である。
 いちばん左の石造物には、「安政七庚申年」の銘が残っている。安政七年(1860)には、江戸城火災や桜田門外の変などの災異を理由に改元があった。つまり、この石造物は、万延元年という、世情が不安定な時期に建てられた庚申塔ということになる。




 本郷に向かう古道を、これら3基の石造物の設置場所からさらに50mほど北に進むと、道路の右側に下の写真に示すような道祖神が残っている。嘉永五年(1852)に建てられたようである。

◆七本木神社と庚申塚

立野の石造物群や道祖神の前を通る道は、下真下や上真下から北に延びてくる古道を併せて(※1)現在の舜栄山法泉寺または七本木神社(※2)の南方に出ていたように思われる。

 本郷地区内に鎮座する七本木神社は、『武蔵国児玉郡誌』によると、もと八幡神社と称し、当地の鎮守であった。明治42年(1909)に七本木村各所に鎮座していた愛宕神社・榛名神社・稲荷神社2社・八幡神社2社・白岩神社の7社を合祀して社号を七本木神社に改めたという(※3)。



※1 下真下から本郷に向かう道も、上真下から本郷に至る道も、昭和17年(1942)から始まった陸軍児玉飛行場の建設工事、そして昭和40年代から50年代にかけて実施された児玉工業団地の整備工事によって、その経路がたどれなくなってしまった。明治18年測量の2万分の1迅速測図「本荘驛」を見ると、下真下の小字「石橋」(真下館の所在地と推定されている)や下真下金佐奈神社の鎮座地周辺から本郷に延びる道、上真下の小字「松場」から「美女木」を経て本郷に延びる道(※a)がしっかりと記されている。烏川の渡河点に至る道と神流川の渡河点に通じる道の分岐点(あるいは交差地点)となる本郷は、中世においても武蔵西北部国境地方における交通の要衝のひとつとなっていたのではあるまいか。(※a 大野きよし氏が旧本庄市や旧児玉町に残る昔話や民話などに材を採って、2008年に再話として刊行された『本庄方言で語るふるさとの伝承昔話』という著作がある。その著作に収められている「雪女の耳白銭」は、この道の途上にある「美女木」を舞台にした昔話である。)
※2 『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会編 1968)によると、七本木神社の境内とその西方にある金井家の敷地を含む一画は平安時代末期の館跡と推定されている(同書p.125参照)。
※3 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927 pp.366-67参照

 

 七本木神社の鳥居を潜ってすぐ右側にある庚申塚は、神社と上里町教育委員会が連名で掲示した説明板によると、本郷の愛宕塚から移転したもので98基の庚申塔から成り、最も古いものは享保16年(1731)の青面金剛像であるという。

 七本木神社の東方に位置する舜栄山法泉寺は天正元年(1573)に金井筑前守の創建とされ、また本庄-藤岡街道を隔てて七本木神社の南方に位置する慈眼山休安寺も同じく金井筑前守の建立とされている(※4)ことから、本郷周辺の開発が進むのは16世紀の後半に入ってからと考えてよいのではあるまいか。そして、金井筑前守が現在の七本木神社の周辺に寺院を2つも建立するなどして本郷の開発に力を注いだのは、この地域が烏川の渡河点にも神流川の渡河点にも通じる交通の要衝に位置することと無関係ではなかったように思われる。

 

 ※4 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927 p.432参照

◆三町の諏訪神社


烏川の渡河点に至る道の追跡には踏み込まずに、七本木神社の南側を通って神流川の渡河点に通じる道を探ることにする。

 神流川の渡河点に至る経路としては、七本木の本郷から長浜下郷に向かう道がすでに中世から存在し(※1)、近世における本庄宿の成立にともなって、本庄宿と上州下仁田方面を結ぶ、中山道の脇往還(上州姫街道とも下仁田街道とも呼ばれる)の道筋として整備されることになったのではあるまいか。ただ、七本木の本郷から長浜下郷の神流川渡河点を結ぶ道筋がどのような道筋であったかを示す資料は残念ながらないので、恣意的な推論にすぎないというご批判を覚悟しつつ、管理人の推測を述べていくことにしたい。



※1 『廻国雑記』によると、文明18年(1486)の6月16日に山城国岩倉の長谷を旅立った道興准后は、越後から上野に入り、文明18年8月には、(栗原仲道氏によれば藤岡市の富士浅間神社に当時あったとする)本山修験の杉本坊に逗留し、「宮の市」「せしもの原」「しほ川」「しろいし」「あひ川」などの名所を訪ね歩いていた。そして、この後、上武の国境にある「かみ長川」(神流川)を渡って「おしまの原」(埼玉県本庄市小島)に分け入るわけである。
 「宮の市」と「せしもの原」は現在の群馬県富岡市、「しほ川」は高崎市吉井町、「しろいし」と「あひ川」は藤岡市の地名と考えられるから、これらの名所はいずれも、近世の上州姫街道の道沿いにあることになる。とすれば、「かみ長川」を渡って「おしまの原」に至る道筋も、近世の上州姫街道と同じく上州側の渡河点である小林(または上戸塚)から神流川対岸の武州長浜へと渡るルートであったとみてよいのではあるまいか(群書類従第18輯 紀行部 巻第337 『廻国雑記』 及び 栗原仲道編 『廻国雑記 旅と歌』 名著出版 2006 の pp.43-46参照)。

 長浜から神流川を渡河して対岸の上州に至るには、複数の渡河ルートがあったのではないかと思われる。一番目に挙げなければならないのは、明治18年測量の2万分の1迅速測図「藤岡町」に見える道筋である。次に、三町の諏訪神社の東側を通る道を北に向かった後、左折して西に向かうと、藤木戸の並木地区を経て藤木戸諏訪神社に突き当たる。藤木戸諏訪神社の北側からは延喜式内社とされる長幡部神社に通じる道があり、さらに長幡部神社の西北にある小字「城」地区を経て西に向かうと神流川の堤に出る。この道筋も、神流川の渡河ルートとして利用されることの多かった道筋であるように思われる。
 以下、まず、明治18年測量の2万分の1迅速測図「藤岡町」に見える道筋を追跡することにし、次いで長浜の小字「城」地区から対岸の藤岡市上戸塚に至ると思われる道筋について触れることにする。

 三町の諏訪神社(上の写真参照)は、上州姫街道沿いの町場として形成された安保町・長浜町・横町(※2)などの鎮守であり(※2)、近世においては当山派修験の別当宮本坊が祭祀を務めていた。毎年の例祭日には相撲が執り行われたという(※3)が、今も境内に残る土俵はその名残であろうか。

※2 『新編武蔵風土記稿』の「安保町」の項に、「当所は古へ安保領中の町場にして、児玉郡本庄宿及び八幡山より、上野国小幡七日市辺へ至る脇往還の宿駅たるをもて、安保町と称し、七本木・長浜の二村も一宿の如くにして、同く人馬の継立をなせし」(原文にある旧字は新字で表記)とある(大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』第12巻 雄山閣 pp.43-45、pp.52-53参照)。
※3 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927 p.368参照

 

 鳥居を潜ると左側に、「御嶽山三柱大神」や「清瀧山王神」などの銘が刻まれた石碑が残っている(左の写真参照)のに気づく。明治期以降に建てられたものとは言え、この社が修験と係わりの深い神社であったことを偲ばせる遺物とみてよいのではあるまいか。

◆藤木戸の諏訪神社

現在の県道23号線(本庄-藤岡線)を三町交差点から西にしばらく歩くと、上里町立長幡小学校の南方に出る。この長幡小学校の西北に鎮座するのが、藤木戸の諏訪神社である。

 『武蔵国児玉郡誌』によると、当社は長禄年間(1457-59)に当地の鎮守として創立され、その後、社殿が頽破していたのを天正年間(1573-91)に村民の協力で再建、さらに明和年間(1764-71)に至って領主の松平大和守による社殿再興があった。社務は西隣にある真福寺が兼帯し、(現在、土俵は見当たらないが)三町の諏訪神社と同じく、例祭日には相撲が執り行われていたという(※)。

※ 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927 pp.370-71参照


 左の写真は、境内西南部に残る石造物を撮影したものである。

 神社やお寺の周囲に残る庚申塔などの石造物は移設されたものも多いので、もともとこの場所に建てられたものではないかもしれないが、簡単に説明を加えておく。

 いちばん右に見える石造物は、青面金剛であろうか。裏面に「奉供養庚申石塔」と刻まれ、「正徳二」の銘が残る。中央の庚申塔には、「寛政十二年庚申年九月吉日」とある。いちばん左は道祖神で、読み取りにくい箇所もあるが、「寛政十三●●九月吉日」と刻まれているように思われる。

◆藤木山真福寺

藤木戸諏訪神社の西隣にある、真言宗智山派の寺院である。『新編武蔵風土記稿』によると、大御堂にある吉祥院の末寺で、藤木山不動院と号した(※1)。本尊は薬師である(※2)。

※1 大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』第12巻 雄山閣 pp.54-55参照
※2 藤原良章氏は、中世においては、修験者が諸国の道を歩き回り、各地に修験の拠点を置いてそこを中心に道路整備等を行ったとし、そのような修験者たちが持ち歩いた本尊が薬師であるという(藤原良章 「中世のみち探訪」 同編『中世のみちを探る』 高志書院 2004 のpp.140-41参照)。院号が不動院であり、本尊が薬師であることを考えれば、藤木山真福寺も、そのような「中世のみち」の整備に大きな役割を果たした修験者たちのひとつの拠点であったのではあるまいか。

 

 本堂北側に、天文15年(1546)に建てられた五輪塔が残っている(左の写真参照)。「逆修僧都円宗」と刻まれているようである。

◆長浜下郷の「宮」地区に残る石造物



県道23号線を西に進むと、長浜下郷の「宮」地区(明治18年測量の2万分の1迅速測図「藤岡町」に記載されている「宮長濵村」)に出る。その「宮」地区に残る小堂である。仏堂とも思われるが、敷地内に昭和39年4月26日に建てられた「宮公会堂建設碑」があるので、地区の公会堂として使用されていたものかもしれない。








 左の写真は、入口左に建つ石造物群を撮影したものである。

 いちばん左に見えるのは道祖神で、「天明三癸卯」の紀年銘がある。その隣の6体は六地蔵で、道祖神の右隣の地蔵の側面には「三界萬霊」の文字が刻まれ、「天保十三壬寅年」の銘が残る。

◆上州姫街道の神流川渡河点(推定地)より藤岡市小林付近を望む

長浜下郷の「宮」地区に建つお堂の前を通る県道23号線は神流川堤に近づくと左に折れて藤武橋の東詰に向かうが、左折せずにそのまま西進すると数百メートルで堤に突き当たる。左の写真は、突き当たった堤の上から、対岸の藤岡市小林付近を遠望したものである。

 『上里町史』は、上里町長浜と藤岡市小林の間に横たわる神流川の、近世における渡河について、従来は上野国緑埜郡小林村と武蔵国賀美郡長浜村が人足を提供して川越をしていたが、大名などの通行が多くなったため、文政十年(1827)に両村が勘定奉行所に願い出て馬渡船弐疋立一艘・歩行渡小船一艘を造り、川の両側に大杭を三本打ち立て、大綱で渡すようになった、としている(※)。


※ 上里町史編集専門委員会編 『上里町史 通史編 上巻』 1996 pp.740-42参照



 『上里町史』には、どこが渡河点であったのかの記載はないので、あくまでも管理人の推定にすぎないが、上の写真の撮影地点付近に、水難除けなどのために設置されることの多い水天宮の碑が残っている(下の写真参照)ので、この地点付近が長浜と小林を結ぶ渡河点であった可能性は高いとみてよいのではあるまいか。

◆長浜下郷の「宮」地区に鎮座する丹生神社

水天宮碑の建つ地点から300mほど下流の右岸に鎮座する神社で、「にゅうじんじゃ」ではなく、「たんしょうじんじゃ」と呼ばれているようである。

 『新編武蔵風土記稿』の長浜下郷村の項に丹生明神社と記載されている神社である(※)が、創建の時期は不明。新里恒房の三男、三郎信光が当地に住して長浜氏を称したことから、境内に掲げられた説明板では長浜氏の「氏神」ではないかとしている。

 同じく説明板によると、当社は明治41年(1908)に長幡部神社の境内社となったが、昭和22年(1947)、氏子の希望により旧地であるこの場所に遷されたという。

※ 大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』第12巻 雄山閣 p.47参照

◆長幡部神社

【次に、三町諏訪神社の東側を通り、長浜下郷の「城」地区に通じる神流川渡河ルートについて記述していくことにしたい】

 三町諏訪神社の項で述べたように、三町の諏訪神社の東側を通る道は北に向かった後、左折して西に向かうと、藤木戸の並木地区を経て藤木戸諏訪神社に突き当たる。藤木戸諏訪神社の本殿は南向きに建てられており、境内の南縁を流れる御陣馬川に架かる石橋の南側には庚申塔も残っているので、藤木戸諏訪神社のもともとの参道入口は南側にあったのではないかと思われる。藤木戸の並木地区を経て西側に延びてきた古道は諏訪神社に突き当たると南側に回り込み、西隣の真福寺と諏訪神社の間を通る道を北に抜けて、延喜式内社とされる長幡部神社に向かっていたのではあるまいか。


 藤木戸諏訪神社と真福寺については、すでに触れたので省略することにし、長幡部神社について述べることにする。

 『武蔵国児玉郡誌』によると、長浜下郷に鎮座する長幡部神社は、延喜式内の小社に列せられ、機業の祖神である天羽槌雄命を祀る。近世においては長幡五所宮と称し、賀美郡の総社であった。往時に、村の西を流れる神流川沿岸の小字「西的場」に勧請された社であるが、天永三年(1112)、洪水により社地が流失してしまったため、現在地に遷座されたものであるとする。天正年中の神流川合戦の際に兵火に罹り、社殿や古器物古文書等を悉く焼失してしまったという(※)。

 

※ 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』 1927 pp.369-70参照。

◆長幡部神社西北の路傍に残る庚申塔



長幡部神社の鳥居の前を通る道を北西に100mほど進むと、路傍に2基の庚申塔が建っている。ともに紀年銘は見当たらず、背面に「東中」とだけ刻まれている。

 ここから北西にさらに進むと、長浜下郷の小字「城」地区に出る。

◆長浜氏居館跡の碑と石造物群

庚申塔の設置されている地点からさらに北西に進むと、長浜下郷の「城」地区に出る。地区の入口付近には「長浜氏居館跡」の碑(左の写真参照)が建っており、その脇を通る道を西進すると、神流川の堤に至る。この道は明治18年測量の2万分の1迅速測図「藤岡町」にも記載されており、対岸の上州上戸塚に通じる渡河ルートとして利用されていたものと思われる。

 『新編武蔵風土記稿』によると、丹党に所属する安保刑部丞実平の弟、長浜三郎信光が当所に住して在名を名乗った(※1)とされ、長浜下郷の小字「城」地区は、「浮浜城」(※2)とも呼ばれる長浜氏居館の所在地と伝えられている。天正年間には北条氏の家臣である笠原掃部が守将として、滝川一益軍と合戦し落城。以後、廃城になったという(※3)。

※1 大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』第12巻 雄山閣 p.45参照
※2 浮浜城図については 浅見良治 『長井氏の研究』(非売品) 1997 p.158参照
※3 埼玉県教育委員会編 『埼玉の館城跡』 1968 p.124参照


 道路を挟んで長浜氏居館跡の碑と反対側に石造物が3基ほど残っている。
 いちばん左の庚申塔は大正9年に設置され、さらに平成16年に改修されたもの。中央にある石造物は二十二夜待供養塔で、「天明」の銘がある。いちばん右の石造物には「猿田彦命」「天鈿女命」と刻まれているが、紀年銘は残されていない。

◆長浜氏居館跡碑前から神流川堤へ



長浜氏居館跡碑の前から神流川堤の方向に200mほど進むと、道路右側の目立たない場所に庚申塔が建っているのに気づく。

 台座のような石の上に据えられている後方の庚申塔の背面には「寛政十二年」、その前の破損した庚申塔には「嘉永元年」、の紀年銘がそれぞれ残されている。

 

◆長浜下郷「城」地区の渡河点より藤岡市上戸塚付近を望む



前項で触れた庚申塔の前からさらに西に向かうと、300mほどで神流川堤に突き当たる。左の写真は、その神流川堤の上から対岸の藤岡市上戸塚付近を遠望したものである。

 明治18年測量の2万分の1迅速測図「藤岡町」を見ると、長浜下郷「城」地区の対岸から上戸塚村の「戸塚祠」に延びる道が確認できる。「城」地区と上戸塚村を繫ぐ神流川渡河ルートが近世に、そしておそらく中世においても、存在したと考えてよいのではあるまいか。

(これで、《下児玉と長浜下郷を結ぶ道》は終了です。訂正が必要な箇所も多々あろうかとは思いますが、現時点での管理人の見解ということで受け止めていただければと存じます。次は、(『宴曲抄』所収の「善光寺修行」にその名が出てくる)「見なれぬ渡(身馴の渡)」及び「朝市の里」の所在場所について考察してみたいと考えております。)


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