北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  

<本稿は、2013年2月発行の『歴史研究』第608号(発行所:合資会社歴研)に発表した拙論を横組に組み直したものです。北武蔵の児玉地方などに残る、史料として価値があるのかどうか定かではない遺物を採りあげて、中世史の専門家であれば躊躇するような強引な推論を展開しているのかもしれませんが、(はっきりしないところの多い)15世紀の関東中世史を解明するささやかなが手掛かりになればと思い、当サイトにあらためて掲載することにいたしました>    【『歴史研究』第608号には載せていない写真が1枚、追加掲載してあります】





◆挫折と転進と ―宝徳・享徳期前後の大石氏の動向を探る―


◆はじめに◆
 東京都八王子市下柚木の伊藤家に伝わった「大石系図」(*1)は、関東管領山内上杉氏の守護代(目代)として同氏の領国支配に大きく貢献した大石氏の事績を探る数少ない資料として、研究者の間で注目されてきた。その「大石系図」の顕重の項に、「康正元年乙亥正月廿五日 亡父遺跡相続 長禄二年戊寅三月十八日 同国移高槻居住」という記事がある。ここに見える顕重の高槻移住については、これまで、どのような背景のなかで顕重が高槻に移住してくることになったのかという視点に立った考察はほとんどなく、また何処から移ってきたのかという点についても、明確になっているわけではないように思われる(*2)。 顕重の高槻移住の背景や前住地について明確な答えが出せると考えているわけではないが、この時期の大石氏が置かれた状況について、武蔵だけでなく、同じ山内上杉氏の領国である上野や(越後上杉氏が治める)越後の政治的状況、さらには幕府の対関東政策も視野に入れつつ考察を進めるなかで、おぼろげながらも一つの仮説らしきものを提示することができたらと考えている。


◆対鎌倉公方強攻策を支えて◆
 「大石系図」によると、顕重の父である大石房重は大石憲儀と越後の長尾因幡守実景の娘との間に生まれた子である。房重の生年は「応永廿七年」とあるから、その生年に誤りがないものとすれば、大石氏と長尾邦景・実景父子(すなわち越後長尾氏宗家)とは、応永二十七年(一四二〇)には既に姻戚関係にあったことになる。
 永享の乱に際して挙兵をためらう上杉憲実に対して大石重仲が決断を促す働きをした(*3)ことについては、湯山学氏が既に指摘されている(湯山・1985)ところであるが、越後長尾氏の因幡守実景も、永享十年(一四三八)八月に憲実が鎌倉から上州に下向するや十月には早くも越後の軍勢を率いて上野に着陣し、さらには武蔵府中に入って主君持氏との決戦をしぶる憲実に速やかに合戦致すべしと強く進言するなど、永享の乱の勝敗を左右するような局面で重要な役割を果たしている(*4)。
 結城合戦では、大石石見四郎が根本五郎を初め七つの首、大石源左衛門尉が大蔵式部丞の首を取るなど、大石氏もそれなりの活躍を見せているが、長尾因幡守実景に率いられる越後勢の活躍は管領方の中でもひときわ目を惹くものであった。城方の兵士三十人を生け捕りにし、さらには敵方の将帥である春王丸・安王丸を捕捉するという、獅子奮迅ともいうべき働きを示しているのである(*5)。
 このように、永享の乱から結城合戦に至る過程で、大石氏や越後長尾氏宗家はともに対鎌倉公方主戦論者とでも言うべき立場に立って積極的に活動したわけであるが、そのなかで、永享の乱において、捕らえられた足利持氏に自害を勧めたのがほかならぬ大石憲儀であるとされている(*6)ことや、成氏の二人の兄、春王丸・安王丸の死に直接係わったのが房重の外祖父たる長尾因幡守実景であったことには注意しておく必要があろう。成氏から、大石氏が長尾氏と比べて、より大きな反感や憎しみを買うことにもなって、五十子(埼玉県本庄市)に陣を構えての長期間に亘る公方方との対峙の後、都鄙の合体策が探られる局面において、大石一族の対応を難しくしていく一つの要因ともなったと考えられるからである。


◆幕府の融和策への転換のなかで◆
 嘉吉元年(一四四一)六月、将軍足利義教が横死すると、これを契機に、関東政策はそれまでの強攻策から、徐々に融和政策へと転換していくことになる。「鎌倉大草紙」は、その間の事情を次のように記している(*7)。

かくて京都にも不慮の事出来て将軍義教公も御果、その御子義勝公も御早世、その御弟三寅公いとけなくして将軍に備り給ふ。三管領の相談にて慈悲を以て専らとして天下を治め給ふ。ここに越後の守護人上杉相模守房定(*8)、関東の諸士と評議して九ケ年が間毎年上洛して訴状を捧げ、基氏の雲孫永寿王丸を以て関東の主君として等持院殿の御遺命を守り、京都の御かためたるべきよし望みて、無数の圭幣をついやし丹精を尽くしなげき申しければ、諸奉行人も尤もと感じ、頻りに吹挙申しけるが、宝徳元年正月御沙汰ありて土岐左京大夫持益にあづけられし永寿王殿をゆるし、亡父持氏の跡を給はり、公方御対面あり。御太刀御馬を下され、同二月十九日関東へ下らるる(*9)。


 このような対関東政策の転換のなかで、持氏の自殺や春王丸・安王丸の死に深く係わった大石一族や長尾邦景・実景父子の立場は徐々に不安定で危ういものとなっていったように思われるのである。揺れ動く関東の政治状況の只中にあって、大石氏が実際にどのような状況に置かれていたのかについてその詳細を窺うことはできないが、義教の意向に沿うかたちで、山内上杉氏の有力被官である長尾景仲や大石一族と歩調を合わせた行動をとっていたと思われる邦景・実景父子については、その没落の軌跡が明らかになっている。『新潟県史』に拠りながら、その軌跡をみていくことにしたい。


◆邦景・実景の没落◆
 足利持氏の死後、鎌倉公方は空位のままであったが、文安四(一四四七)、五年(一四四八)頃には足利成氏の公方としての鎌倉帰還が実現する。しかし、ほどなく、長尾景仲や太田資清らの上杉勢と公方成氏との対立が表面化し、宝徳二年(一四五〇)の四月には、両軍が由比ヶ浜で矛を交えるに至る。この江の島合戦において邦景・実景父子は長尾景仲や太田資清らに加担して参戦するが、上杉勢の大敗というかたちで合戦は終結することになり、景仲や資清らが公方方に帰順するなかで、抗戦の姿勢を崩さない邦景・実景父子は急速に孤立を深めていかざるを得なかった。
 そして、同年十二月には早くも、越後に突然、帰国した守護の上杉房定によって府中を攻められることになり、その結果として邦景は自殺に追い込まれ、実景は信濃への逃亡を余儀なくされる。信濃へ逃れた実景は、なおも房定に対する反攻を続けるが、その反攻も根知谷口(新潟県糸魚川市)で敗れて、享徳二年(一四五三)には没落が決定づけられてしまうのである(*10)。


◆窮地に立たされる大石一族◆
 こうして越後では、長尾邦景・実景父子に代わって守護の上杉房定が主役の座に坐り実権を握ることになるのだが、この結果、越後長尾氏宗家と姻戚関係にあった大石氏と房定との関係は、微妙なものとならざるを得なかったように思われる(*11)。そのことはとりもなおさず、越後上杉氏と極めて密接な関係にある管領山内上杉氏の被官としての大石氏の立場に、大きな影を落とすものとなっていったのではないだろうか。
 一方、成氏方との関係でも、大石氏は極めて厳しい状況のなかに置かれていたものと思われる。成氏の鎌倉帰還後ほどなくして起こった江の島合戦で上杉勢が敗れたことは先に述べたが、江の島合戦後に上杉勢が置かれた状況について、「鎌倉大草紙」は次のように記している。

先年江の島合戦の時成氏へ敵対して、かれらが一味の者ども数輩本領を没倒せられ、其後和談寛免の間、本領を返し下されるべき由、憲忠しきりに訴詔申されけれども成氏御免なかりけり。これにより皆々分国の一揆被官人等をめし集め、猶以て嗷訴致すといへども御許宥なし。


成氏に敵対して本領を没収された上杉氏被官人の苦境が察せられよう。
 この時期の大石氏の動向を示すものとして、次のような文書が残されている(*12)。

鑁阿寺領下野国足利庄内所々事、大石駿河守及入部狼藉間、度々雖有御成敗之、不能承引云々、緩怠至頗招其咎歟、所詮縦猶雖及違乱、固相支之、可被全寺家知行由、所被仰出也、仍執達如件
   享徳三年十月廿八日  前下野守(花押)
              左衛門尉(花押)
    当寺供僧中


ここに見える「前下野守」と「左衛門尉」を『神奈川県史』は鎌倉府奉行人であるとする(*13)が、百瀬今朝雄氏は管領山内上杉家奉行人の誤りであるとしている(*14)。その当否を判断するのは筆者の能力を超えているが、百瀬氏の説のとおりであるとすると、憲儀亡き(*15)後の大石一族の重鎮たる大石駿河守(重仲)は、山内上杉家の奉行人である長老たちの制止を無視して鑁阿寺領である足利庄内所々に侵入して「狼藉」を働いていることになる。一方で、同じ享徳三年の十一月十日付けで幕府の管領、細川勝元から重仲に送られた副状には、次のように記されている(*16)。

伊豆上野両国并所々御知行分事、被成下安堵御判候、目出候、御面目之至候、弥傍輩中以一味之儀、被致忠節候者、可然候、巨細円如庵可被仰候、恐々謹言、
   十一月十日      勝元(花押)
     大石駿河守殿


「伊豆上野両国并所々御知行分事、被成下安堵御判候」とあるのは、伊豆や上野などにおいて大石氏の知行が脅かされるような事態が生じており、それらの知行が将軍足利義政によって安堵されたことを示しているのであろう。詳しい事情は不明であるが、この時期、大石氏は公方方の攻勢にさらされるなかで、山内上杉家の奉行人を務める長老たちの支援も期待できないため、もっぱら幕府を後ろ楯とし幕閣の意向(なかんずく、成氏に好意的であるとは言いがたい態度を保持する細川勝元の意向)に沿って行動することで、自らが置かれた苦境を懸命に打開していこうとしていたとみることができるのではあるまいか。


◆姫塚に残る五輪塔◆
 ところで、埼玉県児玉郡神川町中新里に、平地にある居館址としては児玉郡有数の規模を誇る中世の居館址がある。中新里城跡(*17)と呼ばれるこの居館址は、児玉郡きっての大用水であった九郷用水のほとりにあり、その九郷用水を間に挟んだ対岸には「姫塚」と呼ばれる古塚が残されている。

 この古塚の東南の麓には五輪塔が二基ほど、八幡山(埼玉県本庄市児玉町)に正対するように並べられている(左の写真参照)が、地元の神川町植竹地区に残る伝承では、永禄年間に八幡山城が北条氏に攻めたてられた際に、城から逃げのびてきて息を引き取ってしまった姫の霊を弔うために立てられた墓碑であるという(柳・1976)。八幡山落城にまつわるこの伝承は、永禄年間のこととされているようであるが、これをそのまま鵜呑みにすることはできないのではあるまいか。
 というのは、『児玉町史』中世資料編所収の旧児玉郡内所在文書群からも推察されるように、上杉憲政の越後落ち以降、永禄十二年(一五六九)に甲斐の武田氏が侵入してくるまで八幡山城周辺を支配していたのは、ほかならぬ北条氏であると考えられ、(上杉謙信の軍勢に八幡山城を攻めたてられたというのであればまだしも、)八幡山城が永禄期に北条氏の攻撃を受けるというような事態は想定しにくい(*18)。さらには、この姫塚に遺存する五輪塔に残る紀年銘が永禄期とかけ離れた古い年代を示していることを考え合わせれば、この伝承は永禄期よりももっと古い時代の事件を反映したものである可能性が高いように思われるのである。
 『神川町誌』によると、姫塚に残る五輪塔は、寄せ集めで完全な形ではないものの、地輪についてはすべてのものに銘文が存在し、右塔下地輪には「妙(徳禅尼) 宝徳四年壬申」、左塔地輪には「(享)徳 年二月一日 (国阿弥陀佛)」の銘文が残されている(*19)という。「宝徳四年」といえば、江の島合戦が起こった年の二年後であり、「享徳」も「宝徳」に続く年号で宝徳四年が享徳元年にあたるから、享徳元年なら同じく江の島合戦の二年後、享徳四年なら五年後で分倍河原合戦の起こった年ということになる。どちらも、江の島合戦が起こってさほど年月の経過していない時期を示す紀年銘であり、先に示した「管領細川勝元副状」から推測されるような、伊豆や上野などにおける知行の不安定化に大石氏が直面していた時期とぴったり符合するのである(*20)。
 あやふやな伝承を自説に引き付けて解釈する強引な推論にすぎないと言われればそれまでであるが、江の島合戦後に大石氏が苦境に陥り、同氏の持城の一つである八幡山城(*21)が対抗勢力によって攻撃されたことを示すエピソードと考えれば、興味深いものがある。


◆分倍河原合戦に賭ける◆
 こうして、江の島合戦の敗北以来、管領方(上杉勢)が公方方に押されて苦しい立場に追い込まれるなかで、越後の房定との関係も思うに任せぬ状況にあったのではないかと思われる大石一族は、享徳四年一月に起こった分倍河原合戦に長尾景仲らとともに、自らの、そして同じように公方方に押されて苦しい状況に追い込まれつつある多くの山内上杉氏被官人の、命運を賭けることになったものと思われる。ところが、その合戦において一族の支柱ともいうべき房重と重仲がともに落命するという、予期せぬ事態に追い込まれてしまうのである。
 そして、分倍河原合戦後、ほどなくして、足利成氏が下総の古河に居を据えることになったことから、両上杉氏はこれに対抗するために長禄元年(一四五七)、河越・岩付・江戸諸城の築城を進めるとともに、五十子の陣の設営を急ぐことになる。足利成氏方の攻勢に備えるための防禦体制の構築を進める上杉方の、こうした事情も背景にあって、重仲の系統は八幡山や武蔵青木(埼玉県飯能市)・師岡(神奈川県横浜市港北区)などの所領を召し上げられることになり、その一方で、入東郡久米の永源寺周辺に所領を有していた源左衛門尉・遠江守系の顕重が、多摩地方の押さえという新たな役回りを振り当てられて長禄二年、多摩川の支流、秋川のほとりにある高槻に移住することになったのではあるまいか(*22)。つまり、重仲の系統の大石氏が大きな挫折を味わうなかで、源左衛門尉・遠江守系の大石氏は多摩地方への転進という新たな局面を迎えることになったと考えるのである。
 以上は、針のように小さな材料を棒ほどに拡大して解釈し強引に我が田に水を引くような、ひとりよがりな論説にすぎないのかもしれないが、長禄二年のこととされる顕重の高槻移住についてその背景を探り、一つの仮説(らしきもの)を提示してみた次第である。



〔註〕
(*1)『大石氏の研究』(杉山/栗原・1975)所収。「大石系図」の世代には欠落があり、大石氏の各世代間あるいは一族内の関係の根拠として「大石系図」を用いることは適当でない、との指摘がある(岩崎・1989、湯山・1993)。とはいえ、岩崎氏も湯山氏も、「大石系図」の中に見える記事を史料批判のうえ利用することの意義まで否定されているわけではないので、「大石系図」の顕重の項に見える高槻移住の記事についても、岩崎氏や湯山氏のご指摘を念頭に置きながら、その背景についての考察を進めていくことにしたい。史料批判が極めて不十分で、恣意的な推論ばかりが目立つということになるかもしれないが……。

(*2)中世城郭の研究家である中田正光氏は、大石顕重の高槻移住について、「長禄二年(一四五八)、大石顕重が高槻(八王子市高月町)に移ったという記録が大石系図の中にあります。どこから移ったのかは書いてありません」としながらも、「あるいは二宮から移ってきたのかもしれません」と述べておられる。中田氏の言われる「二宮」とは、あきる野市二宮を指しているようであるから、氏は、他地域からの移住ということではなく、秋川の対岸にある「二宮」から顕重が高槻に移ってきた可能性を想定しておられるようである(中田・2007)。中田氏と同じように考える人が多いのではないかと思われるなかで、湯山学氏は、多摩や入間に本拠地を移した時期については明言されていないものの、「武蔵守護代や足利庄代官職を長尾氏に奪われた大石氏は、多摩・入間両郡に拠って領域支配を展開した」と述べられている(湯山・1986)ので、武蔵守護代職や足利庄代官職を長尾氏に奪われたことが契機となって、大石氏は多摩・入間両郡以外から多摩・入間地方に本拠地を移したと考えておられるようである。

(*3)「永享記」
(*4)「上杉文書之一」(『大日本古文書』家わけ第十二 所収)第一〇九号、第一一一号、第一一二号
(*5)「鎌倉大草紙」
(*6)「鎌倉公方九代記」
(*7)「鎌倉大草紙」からの引用文については、『新校群書類従』第十六巻所収の「鎌倉大草紙」、および『新・国史大年表』第三巻(日置・2008)を参考にして記述した。
(*8)『新潟県史』通史編2(中世)は、当時房定はまだ守護ではないことから、房朝の誤りではないかとしている。同書の223頁参照。
(*9)鎌倉公方足利持氏の跡を継いだ成氏の幼名は「永寿王丸」ではなく「万寿王丸」であること、土岐左京大夫持益に預けられていたのではなく信濃の大井氏に庇護されていたこと、成氏の鎌倉帰還は宝徳元年のことではなく「嘉吉三年十二月十八日以降、文安五年以前のある日」であること、などが既に百瀬今朝雄氏によって明らかにされている(百瀬・1982)。本来なら、その辺の経緯も簡潔にまとめて読者に提示すべきなのであろうが、現在の筆者の能力を超えている。この段落の狙いは、将軍義教の横死以後、幕府の対関東政策が徐々に転換したことを示すことにあるので、細部に事実と相違するところがあるのを承知のうえで「鎌倉大草紙」を引用した。成氏の鎌倉帰還前後の詳しい事情については、百瀬氏の論考など関連の文献を参照されたい。

(*10)足利成氏の鎌倉帰還から長尾実景の没落までの経緯については、『新潟県史』(新潟県・1987)に拠って記述した。
(*11)景仲・景信と二代に亘って山内上杉氏の家宰を務めた白井長尾氏の場合は、長尾邦景・実景を逐って越後の実権を握ることになった上杉房定との関係で齟齬をきたすことは、さほど無かったのではあるまいか。それは、上杉房顕没後の管領として越後上杉房定の子である顕定を迎えることを進言したのは長尾景信であるとされていることで明らかと思われるが、それとは別に、景信が妻として迎えたのが、上杉房定擁立の後見人となり、長尾邦景亡き後の越後守護代に取り立てられた長尾頼景の娘である〔「長尾正統系図」(『大日本史料』第八編之六 所収)、『双林寺伝記』(続々群書類従第4 所収)など参照〕ことも、その証しとはなろう。因みに、この頼景の娘と景信の間に生まれた男子が、長尾景春の乱の主役となる景春その人である。

(*12)「鑁阿寺文書」(栃木県・1973 所収)四五号。この文書とは別に、同じ享徳三年十月廿八日付けで「前下野守」と「左衛門尉」から大石駿河守宛に出された、押妨の停止を命じる奉書も残されている(「鑁阿寺文書」四六号)。筆者は、旧稿の「武州二宮城に関する私見」(伊藤・2007 所収)において、大石憲重は「下野や下総の守護代を務めた」と述べたが、(*1)で挙げた論考(湯山・1986)のなかで湯山氏が縷々論述されているように、「大石憲重は山内上杉氏の代官として、下野国足利庄や山内上杉氏の所領を支配した」と考えるのが妥当と思われるので、この場を借りて訂正することにしたい。この鑁阿寺文書に見える大石駿河守についても、上杉憲忠の代官として足利庄支配に係わっているとみる湯山氏の見解が至当ということになろうか。
 ただ、本文でも述べているように、この文書に見える「前下野守」と「左衛門尉」が百瀬氏のご指摘のように管領山内上杉家の奉行人であるとすると、この文書が発給される五か月前に「前駿河守重仲」が上杉憲忠の「仰」を奉じて足利庄勧農郷内を鑁阿寺に寄進し、また同庄平石智光寺領山下郷内を鶏足寺に安堵せしめている(『神奈川県史』資料編3古代・中世(3下)第六一七二号、第六一七三号文書)ので、この五か月の間に重仲と、成氏方との協調にも心を配らざるを得ない山内上杉家の長老たちとの間に意見や利害の対立が表面化するような何らかの状況変化が生じていたのだろうか。
 明確な答えを用意することはできないが、一つの可能性として、筆者は、この文書は後掲(*20)の第六二四七号文書から推測されるような事態と関係があるのではないかと思うのである。つまり、成氏によって、(大石氏と係わりの深い八幡山城付きの所領である)「小玉村」が没収されて円覚寺黄梅院に寄進されるという、大石氏にとっては非常に厳しい処置が取られたため、その対抗措置として、山内上杉氏の代官として足利庄を支配していた重仲が、同庄内にある鑁阿寺領の所々に侵入して「狼藉」行為を働くことになった。これに対して成氏から憲忠に圧力がかかり、憲忠を補佐する山内上杉家の長老たちが鑁阿寺の僧侶たちに寺領の防禦にあたるよう命じる一方で、重仲に押妨を止めるよう執達することになったということではないだろうか。

(*13)『神奈川県史』資料編3古代・中世(3下)第六一七四号、第六一七五号
(*14)『神奈川県史』通史編1(原始・古代・中世)の906頁および912頁参照。
(*15)「大石系図」によると、大石憲儀は「永享十二年庚申十二月九日」に亡くなっている。なお、湯山学氏は、憲儀が亡くなった時期について、(永享十二年ではなく、)享徳の大乱時である可能性があることを指摘されている(湯山・1993)。
(*16)「上杉家文書之一」一四九号
(*17)『神川町誌』(神川町教育委員会ほか・1989)563頁参照。なお、①神川町元阿保にある「安保氏館跡」を凌ぐような規模をもつ居館址であること、②(十五世紀になって山内上杉氏の居城となる)平井城との往来が至って便利な場所に位置していること、③後掲(*21)の『上毛伝説雑記』に、大石憲重の持城として記載されている上州御嶽蔵王権現山(金鑽御嶽)城と八萬(幡)山城のほぼ中間に位置しており、両城を中継する役割を果たしていたと思われること、などから、中新里城は大石氏の居館であったと筆者は考えている。
(*18)『児玉町史』中世資料編(児玉町史編さん委員会ほか・1992)所収の「旧児玉郡内所在文書」のうち、第三二~三四号文書、第二〇号文書、第二七号文書など参照。
(*19)『神川町誌』五七四頁参照

(*20)「黄梅院文書」に、足利成氏が発給した次のような文書がある(『神奈川県史』資料編3古代・中世(3下)第六二四七号)。

      円覚寺黄梅院領当知行之事
    上總州 周東郡三直郷
    武蔵州 小山田保山碕郷四ヶ村
    同州  河田村
    同州  殖竹郷
    同州  小玉村
    相州  山内庄山碕郷
    同州  同所菜園屋地等
      已上
      享徳六年四月十三日

享徳六年は康正三年(一四五七)にあたるが、ここにある武州「小玉村」について、大石氏の所領であったものが江の島合戦後の宝徳または享徳年間に没収されて黄梅院にあてがわれた、と考えることはできないであろうか。「小玉村」を始め、この文書に見える多くの知行地は管領方の勢力範囲内にあるため、黄梅院の知行は不安定化していたと思われ、この文書、および発給年次が未詳である次の文書(『神奈川県史』資料編3古代・中世(3下)第六二四八号)は、そのような状況下で成氏が黄梅院に発給したものとみることができるように思うのである。

    当院領当知行所々、不可有相違候、恐惶謹言
         卯月廿八日        成氏(花押)
         「黄梅院」

 さらに、第六二四七号文書について付言すれば、その発給年が注目される。享徳六年にあたる康正三年は九月二十八日に長禄と改元されるから、この文書は河越・岩付・江戸などの諸城や五十子陣の設営が進められる長禄元年に発給された文書ということになる。つまり、同文書は、この年に入って八幡山・武蔵青木・師岡を含む上杉方の所領の大幅な組み換えがあったため、これに対抗する措置の一つとして、小玉村など七か所の所領について成氏が円覚寺黄梅院の当知行を確認したもの、とみることができるのではあるまいか。

(*21)江戸期の宝暦年間(一七五一~六四)の記録ではあるが、上野国総社村の釈迦尊寺住職泰亮が著した『上毛伝説雑記』(明治後期産業発達史資料六四〇巻所収)に、大石石見守憲重は「上州御嶽蔵王権現山並びに武州八萬山鉢形の城主なり」という記述がある。鉢形城はさておき、上州御嶽蔵王権現山城(金鑽御嶽城)と、八萬(幡)山城は大石氏の持城であった可能性が高いと筆者は考えている。
 勝守すみ氏は「上野国守護と守護代をめぐる諸研究」(勝守・1978 所収)のなかで、そのまま直接の史料とすることはできないと留保を付けつつ、長尾系図に「文安二年……景仲依此忠節(成氏・憲忠を擁立したという)、任従五位下、亦将軍家御感在テ、長尾如代々関東管領ノ後見并武蔵青木、師岡、八幡山ノ三庄ヲ賜リ、朱宰配ヲ恩免シ賜フ」との記載があることを紹介されている(次の引用とも、同書283頁参照)が、この記述を鵜呑みにすることはできないように思うのである。
 というのは、文安二年(一四四五)の段階では、成氏は公方として鎌倉帰還を果たしてはいない。また、勝守氏は、同じく長尾系図に「康正元年(一四五五)昌賢(景仲)軍忠依無比類、従将軍家玉村十五郷ヲ賜ル」と記載されているとしているが、康正元年といえば一月に分倍河原合戦があって、管領方は大敗して常陸国小栗城に逃げ込むが、そこも成氏軍に攻め落とされて野州へ落ちていき、さらには武州埼西郡へ退くことを余儀なくされるという有り様で、とても「軍忠依無比類」と言えるような状況にはない。『双林寺伝記』所載の「御影之記」では憲忠が生害された日を享徳二年十二月二十七日とするなど、長尾氏関係の諸記録の年代表記は必ずしも正確とは言えないところがあることも考慮すると、大石氏の旧領であったと考えられる八幡山周辺の所領が長尾氏に引き継がれるのは、文安二年よりも後のことである可能性が高いとみてよいのではあるまいか。
 試みに、その時期を考察してみるならば、同じく『双林寺伝記』所載の景信の項に「景信度々依忠功、長禄二年昌賢為介添、山内執事職ヲ賜リ、父子トモニ勤役ス」とある。長禄二年(一四五八)に景信が父親の昌賢(景仲)の介添えとして山内上杉氏の執事職(家宰)を務めるようになったというのが事実であるかどうかは確認できないが、景仲は寛正四年(一四六三)八月に享年七六歳で天寿を全うしているので、長禄二年の時点では七一歳ということになる。一方、景信は文明五年(一四七三)六月に六一歳で亡くなっているので、長禄二年の段階では四六歳である。老齢の父の介添えとして執事職に抜擢されても不自然ではない年齢に達しているとみることができよう。さすれば、景信の山内上杉氏の執事職就任が長禄二年のことであり、執事職就任にともなって、(知行が不安定化していたと思われる)八幡山周辺の所領が景信に将軍家より下げ渡されることになった可能性もなしとしないのではないだろうか。
 先に引用した長尾系図には「将軍家御感在テ、長尾如代々関東管領ノ後見并武蔵青木、師岡、八幡山ノ三庄ヲ賜リ、朱采配ヲ恩免シ賜フ」とあるので、長尾景仲が将軍家より関東管領の後見を命じられて武蔵青木、師岡、八幡山の三庄を下賜されたのと、朱采配を許されたのが同時期であるようにも受け取れる。長尾景仲が朱采配を許されるのは、上杉方が足利成氏勢と対峙するために、五十子に天子の御旗を立てて陣を築く時期のことと思われ、この時期には深谷城や河越城、岩付城、江戸城などが築城され、成氏方との臨戦態勢が整備されていくことはよく知られているところである。古河に居を構える成氏との対抗関係から北武蔵の戦略的な重要性が高まり、分倍河原合戦で房重、重仲と一族の大黒柱を二人ながら亡くしてしまった大石一族には荷が重いという判断があったのか、北武蔵の重要拠点の一つで五十子陣の兵站基地の役割も期待される八幡山の支配が、関東管領の後見という役回りと併せて長尾氏に委ねられることになったということではないだろうか。

 分倍河原合戦で亡くなった重仲の位牌が飯能市中居の宝蔵寺(左の写真参照)に残されていることは、大石氏の研究者にはよく知られている。重仲の位牌が飯能市青木地区の北隣りに位置する中居地区の宝蔵寺に残されていることは、江の島合戦あるいは分倍河原合戦の頃まで武蔵青木が大石氏の所領であったことを示す一つの材料であるようにも思われるのである。この青木も、八幡山や師岡と同様に、五十子の陣の構築が進められる長禄年間に長尾氏に下賜されることになったとみてよいのではあるまいか。

(*22)湯山学氏は、「隼人佑・石見守を称した憲重と源左衛門尉を称した憲儀の系統は別」で、憲重・憲儀を父子の関係とする「大石系図」に対して疑問を提示される一方で、文明三年(一四七一)九月の段階で大石氏には少なくとも、①源左衛門尉・遠江守の系統、②隼人佑・石見守の系統、③源三郎・駿河守の系統、の三つがあったことを指摘されている(湯山・1993)。湯山氏の、この指摘を踏まえれば、文明三年から十三年遡った長享二年(一四五八)の時点においても、大石氏には少なくともこの三つの系統があったと考えてもよいのではないかと思われる。
 さらに氏は、同じ論考のなかで、万里集九の『梅花無尽蔵』に見える「武蔵目代大石定重」の記述が、定重が永正十一年(一五一四)八月「家業」を相続したとする「大石系図」に見える記事と明らかに相違し、むしろ「康正元年乙亥正月廿五日 亡父遺跡相続 長禄二年戊寅三月十八日 同国移高槻居住 永正十一年甲戍二年四月三日卒」という顕重の記事のほうに合致することに言及されている。氏の主張されるように、房重から顕重、定重に至る「大石系図」の記事をそのまま受け取ることはできないのではあろうが、ただ、「同国移高槻居住」という記事、後年、多摩地方に根を張ることになる大石氏が武蔵国内のどこかから高槻に移住してきたという記事まで疑ってかかる必要もないように思われる。高槻に移ってきたのが、房重なのか、顕重なのか、はたまた定重と名乗る人物なのか、明確な答えを得るのは難しいことであるが、「大石系図」に見えるこの三名の人物がいずれも「源左衛門尉」を名乗っていることから判断すると、先に挙げたなかの「源左衛門尉・遠江守の系統」に属する人物が移住してきたことだけは間違いないように思われる。そして、この系統の人物で応永年間に武蔵の守護代を務めた大石遠江入道(道守)の墓塔が所沢市久米の永源寺に残されていることなどを考え合わせれば、長禄二年に高槻に移住したのは久米永源寺周辺の入東郡・多東郡に所領を有する大石氏の一族であったと考えてよいのではあるまいか。
 一方、重仲の子孫と推定される大石駿河守は、八幡山や青木などの所領こそ召し上げられてしまったものの、上州側にある所領は安堵されて、二宮城(金鑽御嶽城)周辺の上武国境地方にとどまることになったものと考える。そして、彼らも、文明十二年(一四八〇)には二宮城を逐われて、大石氏はこの地方から完全に姿を消すことになったと思うのである。



【参考文献】
伊藤正文 『神流の落日 ―中世後期児玉地方史に関する試論―』 北の杜編集工房 2007
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勝守すみ編 『長尾氏の研究』名著出版 1978
杉山博・栗原仲道編 『大石氏の研究』名著出版 1975
中田正光 『よみがえる滝山城 ―戦国の風雲をかけぬけた天下の名城―』NPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会 2007
日置英剛編 『新・国史大年表』第三巻 国書刊行会 2008
松本一夫 「足利庄をめぐる京・鎌倉関係」『古文書研究』二九号 1988
百瀬今朝雄 「足利成氏の幼名」『日本歴史』四一四号 1982
柳  進 『県北の伝承と民俗』 1976
湯山 学 「大石駿河守考―重仲・憲仲・高仲―」『多摩のあゆみ』四〇号 1985
湯山 学 「山内上杉氏家宰職と長尾氏 ―武蔵国守護代職をめぐって―」『埼玉地方史』一九号 1986
湯山 学 「山内上杉氏の守護代大石氏再考 ―『木曽大石系図』の史料批判―」『多摩のあゆみ』七三号 1993
神奈川県県民部県史編集室 『神奈川県史』通史編1(原始・古代・中世)1981
神奈川県県民部県史編集室 『神奈川県史』資料編3古代・中世(3下)1979
神川町教育委員会ほか 『神川町誌』 1989
児玉町史編さん委員会ほか『児玉町史』中世資料編 1992
栃木県 『栃木県史』史料編中世一 1973
新潟県 『新潟県史』通史編2中世 1987
『新校群書類従』第十六巻 内外書籍 1928
「上毛伝説雑記」 明治後期産業発達史資料六四〇巻『上野志料集成二』 龍溪書舎 2002(復刻) 所収



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