北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  


◆九郷用水開鑿の担い手考 -猿楽堰分岐用水と九郷落しに着目して-


◆中世における吉田林堂ノ西地区と「猿楽堰分岐用水」の開鑿◆

 2003年に児玉遺跡調査会が発表した『児玉条理遺跡-吉田林堂ノ西地区-』という調査報告書(※1)がある。同調査報告書は、旧児玉町吉田林にある「堂ノ西地区」の発掘調査の結果をまとめたものであるが、吉田林の古代から近世にかけての開発過程について、次のような記述がある。
「この区域(旧児玉町吉田林地区:管理人註)の水田と灌漑系統は、条里形地割を残し九郷用水『薬師堰』系統の用水によって潅漑される古代的な様相の残存すると想定し得る区域と、方格地割が崩れた『猿楽堰』系統の用水によって潅漑される中世的な様相を帯びた区域、地形に沿った形態をもつ溜池潅漑による近世の新田開発にかかると推定される区域が、この同一の区域に重層的に複合・累積した結果であると捉え返すことができるであろう」(※2)
旧児玉町の吉田林地区は、古代的な開発の残存する区域と、中世的な様相を帯びる区域、及び溜池潅漑による近世的な開発と推定される区域とが重層的に複合・累積した地域である、というのである。

 ここで管理人の個人的関心から特に注目したいのは、吉田林地区における古代から近世にかけての開発のうち、「『猿楽堰』系統の用水によって潅漑される中世的な様相を帯びた区域」の開発である。吉田林地区の中世的開発に重要な意味をもったと考えられる「猿楽堰分岐用水」(以下、九郷用水の「猿楽堰」から八幡山・吉田林方向に延びる用水を仮に「猿楽堰分岐用水」と表記することにする(※3))について、その開鑿がどのように進められたのかについて考察してみたいのである。
 本報告書の執筆者である鈴木徳雄氏は、猿楽堰は中世初期の「児玉庄」に関わるとし、「猿楽堰分岐用水」の開鑿を中世初期と推定している(※4)ようであるが、「猿楽堰分岐用水」の開鑿は、中世初期よりも少し下って、猿楽堰に臨む中新里の地に児玉地方有数とされる中世城館が築かれた時期と重なるのではあるまいか。猿楽堰のほとりに残る中新里城跡について、『神川町誌』は安保氏館跡を凌ぎかねない児玉地方有数の中世城館址としている(※5)が、この城館の主が誰であるかについては確たる手がかりもなく、闇に包まれたままである。ただ、この中新里城跡が九郷用水の最上流部にあって「猿楽堰分岐用水」の起点とも言うべき場所に立地していることから、「猿楽堰分岐用水」の開鑿が中新里に城館を構えた武士集団によって進められた可能性があり、用水開鑿を技術面で支える人たちがこの武士集団に随伴していたようにも思えるのである。

 そうであるとすれば、「猿楽堰分岐用水」を始めとする用水路の開鑿を担ったのがどのような人たちなのかを、九郷用水全体の灌漑系統を視野に入れながら考察することによって、中新里に城館を構えた武士集団の姿におぼろげながらも迫ることが可能であるように思うのである。とは言え、「猿楽堰分岐用水」の開鑿について触れた確たる文書が残されているわけではないので、九郷用水の流域に残されている伝承や民俗行事などを手がかりに、「猿楽堰分岐用水」の開鑿に力を尽くした「技術者集団」とその後ろ盾となった勢力の姿に迫っていくことができればと考えている。たぶんに恣意的な解釈に傾くところがあるかもしれないが、はっきりしないところの多い児玉中世史を解明する一つの試みとして、お付き合いいだだければ幸いである。

※1  児玉町遺跡調査会報告書第15集『児玉条理遺跡 ―吉田林堂ノ西地区―』 埼玉県児玉町遺跡調査会 2003
※2 上掲(※1)報告書 p.12 参照
※3 左上の写真に収めてある水路図は、明治18年調製の九郷用水田地界村全図を基に本庄市史編集室が作図したものをベースに、児玉町史編さん委員会がさらに修正を加えて作成した「九郷用水水路図」に、管理人が一部、加筆して作成した。
※4 上掲(※1)報告書 pp.44-45 参照
※5 神川町教育委員会ほか 『神川町誌』 1989 p.563 参照


◆「九郷落し」の開鑿と山王権現を奉ずる集団◆

 九郷用水下流部の灌漑用水確保という視点から九郷用水全体の灌漑系統を見渡すとき、重要な意味をもったのは「九郷落し」の開鑿であったように思われる。「九郷落し」の開鑿によって、九郷用水南流の下流部に位置する、男堀川及び窪田堀流域に耕作地をもつ人々は開鑿以前よりも安定的な用水の確保が可能になったと考えられるからである。
 それでは、この「九郷落し」の開鑿に関与したのはいったい、どのような人たちだったのであろうか。以下、地元に残る伝承や民俗行事などを頼りに考察を進めていくことにしたい。
 田島三郎氏の著書『児玉の民話と伝説』下巻に、上真下金鑽神社(左の写真参照)に関係する水祭りの行事である「精進祭り」について、次のような記事がある。

「古くから行ってきたご精進の様子は、上真下の鎮守金鑚神社の神主さんが各郭より申し込まれた「注連」(八丁注連とも言っている)を斎戒沐浴してつくっておき、祭りの日、当番にあたった者が、時を見計らって戴いて来て、郭のみんなで青竹二本と九郷の流れに合わせ二重の注連縄を張り「雌蝶・雄蝶の御神酒徳利」の替りに一節竹でつくった代用徳利二本。それに御神酒を入れ用意しておいたものに、当番の持って来た注連をつけて両岸に竹を立て準備が整う。若い者や郭の役付は「ふんどし一丁」になり流れに飛び込んで六根罪障、六根清浄と共に水を掛け合い互いに身体を清め、注連にも水を掛けて不浄を払い神事は終わったのだそうです」(※6)

 管理人は、「ふんどし一丁」になった若い者や郭の役付が流れに飛び込んで行われるこの神事を実際に目にしたことはないが、その間を二重の注連縄で結んだ2本の青竹を1本ずつ両岸に立て、張り渡した注連縄の中央部に(御神酒を入れた)一節竹の代用徳利を吊るした“注連縄飾り”のようなものについては、鮮明な記憶がある。この“注連縄飾り”が立てられるのは通学する学校が夏休みに入ろうとする頃で、2本の青竹が立てられる場所は3箇所あった。

 一つは「九郷落し」の流頭に架かる「央橋」。もう一つは、流末すなわち赤根川(現・女堀川)と「九郷落し」との合流点のすぐ下流にある「松場橋」(左の写真参照)。残りの一つは、小字「東」の北辺を流れる九郷用水北流に架かる橋のすぐ上流であった。このこと、つまり、注連縄で結ばれた青竹が、ほかならぬ「九郷落し」の流頭と流末に立てられることは、「精進祭り」が「九郷落し」の開鑿に係わる神事であることを示唆しているのではあるまいか。そして、「『ふんどし一丁』になり流れに飛び込んで六根罪障、六根清浄と共に水を掛け合い互いに身体を清め」る所作には、行者(修験者)の振る舞いを想起させるものがあることから、いささか強引な推論かもしれないが、「九郷落し」の開鑿には、中世における“聖”、すなわち、修験者の集団が関与していたのではのではないかと思われるのである(※7)。そして、この「九郷落し」の流頭に臨む位置に祀られていたのが山王権現(日枝神社)であった(※8)ことを考えれば、「九郷落し」の開鑿に関与した集団とは、山王権現を奉ずる天台系の“聖”の集団であったと考えてよいのではあるまいか。

※6 田島三郎『児玉の民話と伝説』下巻 児玉町郷土研究会(日向国俊)1992 pp.89-90参照
※7 上掲書(※6)によると、この「精進祭り」は、もともとは石尊様や愛宕様を祀る精進祭りとされ、九郷用水北流と南流を分かつ分水堤の上には愛宕様が祀られていたとされていることも、修験者の集団が「九郷落し」の開鑿に関与していたことを示唆しているように思われる。同書 pp.88-89参照。
※8 『武藏國兒玉郡誌』(小暮秀夫編 1927)の「上真下村社 金鑽神社」の項に、「当社創立年代詳ならざれども往古より上真下の鎮守として厚く崇敬せり、宝永年間社殿炎上せるを以て字神西の日枝神社に合祀せしが、宝暦年中に至り旧社地に社殿を再興して遷座なし、爾来崇敬し来りしと云ふ。然るに明治四十一年に至り再び日枝神社に合祀し、金鑽神社と称す」(原文は旧字体表記)とある。同書 pp.347-48参照。


◆ノメリアガリ薬師の伝承◆

 (先にも述べたように)九郷用水の灌漑系統のうち、「九郷落し」の開鑿によって最も恩恵を被ることになったのは、男堀川や窪田堀が流れる、現在の本庄市北堀地区に耕作地をもつ人たち(あるいは、もつようになった人たち)であったように思われる。その北堀地内にある太平山東福寺(左の写真参照)の本尊、薬師尊には、「ノメリアガリ薬師尊由来」と呼ばれる、次のような伝承が残されている。

「…(前略)…電光煌煌として閃(▼原文は火偏に「閃」▲)めき恰も白昼の如く雷鳴轟轟として鳴り殆しと泰山を覆すか如し 加之風吹き雨降り実驚ろき現象なり 衆皆曰く斯る迅雷烈風あるは必す忘願に因りて神霊を汚せしに因らんと少焉て暁に至れは 迅雷烈風全〃退きたり 是れを以て人民互に昨夜の天変は必す耕作物を害せしならんと出でて之を見れは 豈に図らんや金鑚社内より神龍の匍匐したる踪跡あり 加之側らに薬師尊の像あり 依て初めて神龍の薬師を負ひ堀形ちを示せしを知り勤めて開鑿に従事し遂に一町一八ケ村の用水道と為す事を得たり地人をして饑渇餓莩に至らしめす豊熟常ならしむるも金鑚神社と薬師尊との加護に依りて然るならん故に該尊の降りし地を薬師堂と名け今字に薬師堂千四百拾七番地なり…(後略)…」(※9)

 『本庄市史』は明治10年頃に書かれたこの由来書について、北堀の小字薬師堂にある東福寺の本尊、ノメリアガリ薬師の由緒を語る形式をとっているが、本来は、北堀にあった金鑽神社の由緒を物語るものでもあったと推定している(※10)。宝暦8年(1758)に法印良敞によって再興されたとされる東福寺は現在、真言宗智山派の寺院ではあるが、「金鑚社内より神龍の匍匐したる踪跡」を開鑿したところ、「一町一八ケ村の用水道と為す事を得たり」と記されているのを見れば、用水路、つまり九郷用水の開鑿に関与したのは(真言系の“聖”ではなく)「金鑽社」、つまりは(金鑽社に拠る)天台系の“聖”の集団であったことを示唆しているように思われる。そして、「金鑚社内より神龍の匍匐したる踪跡」という記述は、天台系の“聖”の集団が示した「堀形ち」、すなわち「神流川から引水した水を(新たに開鑿する)九郷落しを経て九郷用水南流の下流部を灌漑するという、用水系統の大再編計画」を立て、これを「地人」を指揮して実行に移したのが、ほかならぬ「金鑽社」に拠る天台系の“聖”集団であったことを象徴的に表現しているように思うのである。

※9 本庄市史編集室 『本庄市史』通史編Ⅰ 1986 pp.654-56参照
※10 上掲書(※9)pp.656-57参照


◆吉田林の日吉大権現◆

 九郷用水流域に所在する日枝神社(山王権現)に注目すると、「猿楽堰分岐用水」の流末に位置する吉田林にも、“吉田林の獅子舞”で知られる日枝神社(左の写真参照)がある。当社について『武藏國兒玉郡誌』は、

「当社初め御年社と称す、創立は御冷泉天皇の御宇、治暦二年なりと云ひ伝ふ、一説に児玉党支族宮田某の勧請なりとも云ふ、其後永禄年間に至り、八幡山の雉岡城の稗将山口修理亮盛幸・該城守護の為に近江国日枝山より山王権現を遷して御年社に合祀し、是より日吉大権現と称せり」(※11)

と、その由緒を記している。しかし、戦国期の永禄年間に、武蔵にある八幡山城の北東守護のために、遠方の近江からわざわざ山王権現を勧請するような勢力が児玉地方に存在した可能性は低いのではあるまいか。吉田林周辺の児玉地方で同権現の勧請に動く勢力の存在を想定するとすれば、それはもっと古い時代のことであるように思うのである。

 『児玉条理遺跡 -吉田林堂ノ西地区-』の中で、吉田林地区の再開発の過程について、鈴木徳雄氏は次のように記述している。
「…(前略)…古代的な灌漑系統の流末に位置するこの区域は、八幡山地区の水田の荒廃に先立って、いち早く荒廃していったことが予想される。ちなみに、この“金屋大溝”等の用排水系統の衰退の後に、『猿楽堰』の設置にかかる灌漑系統に置換されたと推定される…(後略)…」(※12)

 鈴木氏が推定されるように、古代的な灌漑系統の荒廃の後に『猿楽堰』の設置にかかる灌漑系統の整備があったとすれば、山王権現の吉田林への勧請の時期としては、戦国時代の永禄期ではなく、「猿楽堰」を設置してそこから八幡山・吉田林へと至る用水堀が開鑿されたこの時期にこそ、その可能性があるように思われる。そして、その勧請の時期とは、「九郷落し」の流頭近くに鎮座する上真下の山王権現と同じく天台系の“聖”の集団が関与しているのではないかと思われることから、「九郷落し」が開鑿されて上真下に山王権現が勧請されるのとほぼ同じ頃に、吉田林にも山王権現が勧請されることになったのではあるまいか。要は、上真下の山王権現も吉田林の山王権現もともに、九郷用水流域の灌漑系統の再編や八幡山・吉田林地区の再開発に絡んで勧請されることになったのではないかと思われるのである。

※11 小暮秀夫編 『武藏國兒玉郡誌』 1927 pp.349-50参照
※12 児玉町遺跡調査会報告書第15集『児玉条理遺跡 ―吉田林堂ノ西地区―』 埼玉県児玉町遺跡調査会 2003 p.45参照


◆植竹の山王日枝神社と長慶寺◆

 山王権現(日枝神社)といえば、「猿楽堰分岐用水」の起点に位置する植竹にも存在する(左の写真参照)。『武藏國兒玉郡誌』には、
「当社創立は、大治五年に近江国滋賀郡日吉神を遷座し、当村の鎮守となすと云ふ、永正元年九月本殿及拝殿を改造し、天正三年四月に随神門を建設すと云ふ、…(中略)…安永年中社殿を改築し石燈籠を建立す、其後屢ゝ社殿を修繕す、社領は字猿楽と云ふ処を地頭より寄付したりと、是れ当社の縁故地なり、…(後略)…」(※13)
とあって、社領を寄付した地頭や年代が不明であるものの、当社が、「猿楽堰分岐用水」の分水点である、九郷用水左岸の小字「猿楽」と縁の深い社であることが分かる。また、神仏習合思想のもと別当寺として植竹の山王権現を管理する立場にあった祥雲山長慶寺の境内地も猿楽堰のすぐ上流に存在する。植竹の山王権現及び長慶寺の境内地が猿楽堰の近傍に存在することは単なる偶然なのであろうか。管理人は単なる偶然ではなく、そこにははっきりとした理由があるのではないかと考える。山王権現を奉じ、長慶寺に拠る人たちがあって、それらの人たちが猿楽堰の設置と「猿楽堰分岐用水」の開鑿に重要な役割を果たしたのではないかと思うのである。

 さらに『新編武蔵風土記稿』記載の祥雲山長慶寺の項に注目すると、「天台宗、児玉郡金鑽村金鑽寺末、祥雲山明王院と号す、開山の僧を天神房善海と云、」(※14)と記されている。金鑽寺(現在の大光普照寺)と長慶寺は近世において本寺末寺の関係にあり、また、開山僧とされる善海が(鎌倉末期に川越喜多院から来住して金鑽談所を開設したとされる)豪海と、同じ「海」の字を共有していることなどを併せ考えると、金鑽寺と長慶寺は、善海による長慶寺草創のときから、かなり強い結びつきをもっていたものと推測される。

※13 小暮秀夫編 『武藏國兒玉郡誌』 1927 pp.375-76参照
※14 蘆田伊人校訂 大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』第十二巻 雄山閣出版 p.50参照


◆聖護院末御嶽山金剛院法楽寺◆

 ところで、金鑽寺の門前から金鑽神社の一の鳥居を潜って御嶽山頂に向かうと、鏡岩の前を過ぎてほどなく、山頂へと通じる稜線に出る。この稜線を西に進むと御嶽山の山頂だが、東方向に歩くと小高く聳え立った岩山の前に出る。この岩山の頂には蔵王権現が祀られていたようであり(※15)、現在も護摩壇跡と思われる礎石が残されている(左の写真参照)。

 その岩山の南麓には京都聖護院末の御嶽山金剛院法楽寺という寺院の存在したことが知られている(左下の写真参照)が、そこに拠った“聖”たちは実は用水路開鑿の知識と技術を備えた技術者集団でもあって、そのような技術者の集団が植竹の山王権現を奉じる集団と一体となって(※16)八幡山や吉田林の開発を進めるために、「猿楽」の地に堰を設け、そこから吉田林方面に水を引くという計画を練りあげて 、実行に移すことになったのではないかと思うのである。



 そして、彼らの練りあげた九郷用水灌漑系統の大再編計画が、「ノメリアガリ薬師尊由来」に見られるような「金鑚社内より神龍の匍匐したる踪跡」とか「神龍の薬師を負ひ堀形ちを示せし」といった表現で伝承されることになったのではあるまいか。

 このような物言いは管理人の単なる思いつきに過ぎないのかもしれないが、猿楽堰近傍の植竹と「九郷落し」流頭の上真下という九郷用水にとって要とも言うべき場所や、中世的な開発が進められた吉田林の地に山王権現が勧請されていることに注目すれば、とるに足りない言説として簡単に切り捨てるのではなく、一つの仮説として検討してみるだけの価値があるように思うのである。


※15 蘆田伊人校訂 大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』第十二巻 雄山閣出版 p.33及びp.32の「御嶽山図」参照
※16 聖護院末御嶽山金剛院法楽寺に拠った“聖”集団と、「九郷落し」流頭や吉田林、そして「猿楽堰」近傍の植竹に山王権現を勧請した“聖”の集団とが全く同一の集団なのか不明ではあるが、どちらも同じ天台系の“聖”集団であることは確かであり、現時点では、一体となって「猿楽堰分岐用水」や「九郷落し」の開鑿を進めたと考えておきたい。思うに、金剛院法楽寺と長慶寺は、(現在の)総合建設会社(ゼネコン)における本社と現場事務所のような関係にあった、と考えられなくもないのではあるまいか。


◆天台系“聖”集団の後ろ盾になったのは?◆

 それでは天台系の“聖”集団が進める、このような九郷用水灌漑系統大再編の後ろ盾となったのは、どのような勢力だったのであろうか。
 まず考えられるのは、九郷用水を隔てて小字「猿楽」の対岸に城館を構えた勢力であろう。この勢力が八幡山や吉田林の中世的開発を推し進めるために、「猿楽堰分岐用水」の開鑿を推進したのではないかと思われるのである。

 「九郷落し」の開鑿については、本庄氏が主たる推進者となったように思われる。「九郷落し」の開鑿による恩恵を最も被るのは男堀川及び窪田堀沿いに耕作地をもつ人たちであり、北堀地内の小字「本田」などに館を構えていた本庄氏一族が「九郷落し」開鑿を強力に推進した可能性が高いのではないか。
 真下氏については、(神流川から引水する)九郷用水最上流部の用水堀の開鑿によって九郷用水北流への安定的な用水の確保が可能になったと思われる。さらに、九郷用水の北流と南流に挟まれる上真下の小字「東」に真下氏の館推定地があって(※17)、この地は「九郷落し」開鑿によって館の防禦能力が向上すると考えられることから、真下氏も「九郷落し」の開鑿に関与していたとみてよいであろう(※18)。

 要するに、「猿楽堰分岐用水」の九郷用水本流からの分岐点に城館を構えた勢力、九郷用水南流への安定的な用水を確保したい本庄氏一族、そして九郷用水北流への充分な用水の確保を望む真下氏などが力を合わせて神流川からの取水部の開鑿を進めつつ、これと併せて(神流川から取水した用水を自らの再開発地や耕作地へと導くために)九郷落し開鑿や猿楽堰など諸堰の整備を強力に推進したとみてよいのではあるまいか。


※17 神泉村誌編さん委員会編 『神泉村誌』 2005 p.90参照 左上の写真は、同書より「伝東福寺跡」の図版を転載したものである。「伝東福寺跡」は上真下の小字「東」にあり、真下氏館の一つと考えられている。
※18 旧児玉町の坂本英二家に伝わる花伝書『伝書之事』に、「素戔嗚尊 九郷惣鎮守ト祭ルこと金鑽明神」と題した伝承が載せられている。九郷用水開鑿の縁起を記そうとして必ずしも成功しているとは言い難いが、九郷用水が戦国以前の開鑿であることを示唆する伝承とみることはできるのではあるまいか。(児玉町史編さん委員会編 『児玉町史』中世資料編 1992


◆中新里に城館を構えたのは?◆

 九郷用水を間に挟んで小字「猿楽」の対岸に、「中新里城跡」と呼ばれる中世の城館跡がある。
 現在では、小字「東城」の地に東城稲荷と呼ばれる小さな稲荷社(左の写真参照)が残されているばかりで、かつての姿を思い描くべくもないが、『神川町誌』によると、中新里城跡は東西約300m、南北約240m。平地にある城館跡としては、児玉郡内でも有数の規模を誇り(※19)、神川町においては安保氏館を凌ぎかねない規模をもつとされる。


 左下の写真は、『本庄市史』資料編(※20)に付図として収められている「九郷用水関係町村全図」のうち、八日市集落の周辺部分を抜粋したものである。写真の左端中段には「東城」「北城」「南城」の小字名が見えるが、ここは中世の城館「中新里城」が存在したところとされている。そして、現在の八日市集落にあたる部分はどうかというと、その小字名は「上屋敷」「中屋敷」「北屋敷」「南屋敷」となっており、これらの小字を併せると全体としてかなりの広がりをもつ。このことは、この辺りに広大な屋敷群の存在していたことを示唆しているように思われる。

 中央部に見える赤丸印は管理人が付け加えたもので八日市熊野神社の現所在地を示すが、八日市熊野神社は地内の小字「今城」から遷座されたと伝えられている。城や城館の構築にともなって神社や寺院が移設される例は珍しくないことから、(あくまでも管理人個人の推測ではあるが)八日市集落の建設は、中新里の城館の構築や熊野神社の遷座と一体のものとして進められた可能性があるように思われる。
 八日市集落が中新里城の構築と一体のものとして建設されたのであるとすれば、中新里城の主は、九郷用水本流の最上流に設けられた堰のほとりに立地して九郷用水の水利権への大きな政治的影響力と、(八日市に存在したと想定される)広大な屋敷群の成立を可能にするような経済力とを兼ね備えていたと推定される。中新里の城館は、この地方きっての有力者の居館とみてよいのではあるまいか。

 次に、(1959年に前島康彦氏が『埼玉史談』誌上で指摘されて以降、採りあげる研究者もほとんどないようであるが)上州群馬郡総社村釈迦尊寺の住職、釈泰亮が近世の安永年間に筆録した『上州伝説雑記』という記録があって、その中の「白井伝説 下」に、大石石見守憲重は「上州御嶽蔵王権現山並に武州八萬山鉢形の城主なり」という記述が見える。(※21)この記述を信じれば、八幡(萬)山は大石氏の所領であったと思われるから、自らの所領である八幡山や隣接する吉田林の再開発を進めようとするなら、「猿楽堰分岐用水」の開鑿はそのための有効な手段となったように思われる。その意味で、「猿楽堰分岐用水」の分水点であり、また九郷用水本流における設けられた堰としては最上流に位置する堰である猿楽堰のほとりに存在した「中新里城」について、大石氏が築いた可能性があると揚言しても、さほど突飛な物言いではないように思われるのである。


※19 神川町教育委員会ほか 『神川町誌』 1989 p.563参照
※20 本庄市史編集室 『本庄市史』資料編 1976
※21 「上毛伝説雑記」 明治後期産業発達史資料第640巻『上野志料集成二』 龍溪書舎(2002 復刻)所収


◆享徳六年発給の文書◆

 とは言え、中新里城は大石氏の居館であった可能性がある、と言われても、にわかには信じかねるというのが大方の反応であろうから、解釈によっては、「中新里城=大石氏居館」説の傍証となるのではないかと思われる文書を、次にお示しすることにしたい。その文書というのは、享徳六年に足利成氏が円覚寺黄梅院宛てに発給した次のような文書(※22)である。

  円覚寺黄梅院領当知行之事
上總州 周東郡三直郷
武蔵州 小山田保山碕郷四ヶ村
同州  河田村
同州  殖竹郷
同州  小玉村
相州  山内庄山碕郷
同州  同所菜園屋地等
  已上
  享徳六年四月十三日

享徳六年は康正三年(1457)にあたるが、ここにある「小玉村」について、大石氏の所領であったものが江の島合戦後の宝徳または享徳年間に没収されて足利成氏より黄梅院に宛て行われた、と考えることはできないであろうか(※23)。「小玉村」を始め、この文書に見える多くの知行地は管領方の勢力範囲にあるため、黄梅院の知行は不安定化していたと思われ、この文書は、そのような状況下で成氏が黄梅院に発給したものとみることができるように思うのである。
 さらに付言すれば、この文書に見える「殖竹郷」は、『神奈川県史』では足立郡の地名であるとされているが、「植竹郷」の誤記または誤読である可能性もあるのではあるまいか。小字「猿楽」の九郷用水対岸に築かれた中世城館の主が大石氏であるとすれば、九郷用水左岸にある「植竹郷」も大石氏の所領である可能性が高く、お石氏の所領と思われる「小玉村」とともに成氏によって没収された可能性があるように思われるのである。
 康正三年は九月二十八日に長禄と改元されるから、この文書は河越・岩槻・江戸などの諸城や五十子陣の設営が進められる長禄元年に発給された文書ということになる。つまり、この文書は、この年に入って八幡山・武蔵青木(※24)・師岡を含む上杉方の所領の大幅な組み換えがあったように思われるので、これに対抗するために、「小玉村」や(「植竹郷」のことではないかと思われる)「殖竹郷」など七か所の所領について成氏が円覚寺黄梅院の当知行を確認したもの、とみることができるように思うのである。

※22 神奈川県県民部県史編集室 『神奈川県史』資料編3古代・中世(3下)(1979)所載の第六二四七号文書
※23 『鎌倉大草紙』は、江の島合戦後に上杉勢が置かれた状況について、次のように記している。 《先年江の島合戦の時成氏へ敵対して、かれらが一味の者ども数輩本領を没倒せられ、其後和談寛免の間、本領を返し下されるべき由、憲忠しきりに訴詔申されけれども成氏御免なかりけり。これにより皆々分国の一揆被官人等をまし集め、猶以て嗷訴致すといへども御許宥なし》 上杉方の有力被官である大石重仲も、本領である「小玉村」を(「植竹郷」を誤記または誤読した可能性のある)「殖竹郷」とともに成氏によって没収されてしまったのではあるまいか。なお、この時期に大石氏一族が置かれた苦境については、拙稿『挫折と転進と ―宝徳・享徳期前後の大石氏の動向を探る―』(合資会社歴研発行『歴史研究』第608号 2013 掲載)を併せてご参照いただければ幸いである。
※24 埼玉県飯能市の青木地区には「大石館」と推定される中世城館址が存在するようであり、また青木地区の北隣の中居にある宝蔵寺には、享徳四年(1455)の分倍河原合戦で負傷し落命した大石重仲の位牌が残されているという。これらより判断すると、武蔵青木は分倍河原合戦の前後、大石氏の所領であったとみてよいのではあるまいか。


◆おわりに◆

 長々と拙い推論を展開してきたが、本稿において管理人が読者に提示したいことは大きく分けて、次の二つである。

 一つは、九郷用水の北流と南流を繫ぐ「九郷落し」の流頭や「猿楽堰分岐用水」の流頭と流末の近傍に「山王権現」が祀られていることから、九郷用水の開鑿には「山王権現」を奉ずる“聖”(修験僧)の集団が関与していたものと推定される。また、北堀の東福寺に伝わる「ノメリアガリ薬師尊由来」に「金鑽社内ヨリ神龍ノ匍匐シタル踪跡」や「金鑽神社ト薬師尊トノ加護ニ依リテ」などの記述があるのを見ると、金鑽寺(おそらくは、御嶽山南麓にあった聖護院末金剛院法楽寺に拠った“聖”の集団)が九郷用水の開鑿に重要な役割を果たしたように思われる。植竹や吉田林、そして「九郷落し」流頭の上真下に「山王権現」を祀った“聖”の集団と、御嶽山の南麓に拠った聖護院末金剛院法楽寺の“聖”たちとの関係については、(推測の域を出ないものの)同じ天台系の“聖”集団であることから、両者は一体であったか、少なくとも密接な関係にあったと考えてよいのではないかと思われる。

 もう一つは、こうした“聖”集団の活動の後ろ盾として、本庄氏や真下氏、さらには猿楽堰のほとりにある中新里の地に城館を構えた武士の集団が関与していたのではないかということである。
 「九郷落し」の開鑿の主たる推進者は本庄氏であり、真下氏も北流の整備や「九郷落し」の開鑿に関与したものと思われる。

 「猿楽堰分岐用水」を開鑿して八幡山や吉田林の再開発を進めた集団については、(近世の記録ではあるが)『上毛伝説雑記』に大石石見守憲重は「上州御嶽蔵王権現山並に武州八萬山鉢形の城主なり」という記述も見えることから、大石氏一族の可能性があるように思われる。『神奈川県史』資料編3古代・中世(3下)所載の第六二四七号文書に見える「殖竹郷」が「植竹郷」の誤記または誤読である可能性もあり、仮に「植竹郷」の誤記または誤読なら、「中新里城=大石氏居館」説の確度は大いに高まるのではあるまいか。

 管理人がここに提示した一文に対しては、文献を重視する歴史研究者から、地域に残る伝承や民俗行事などを恣意的に並べた、ひとりよがりな臆説にすぎない、という批判も予想されそうである。ただ、九郷用水の開鑿や中新里城の構築に関連する文献がほとんど見当たらない以上、九郷用水開鑿を担ったのがどのような人たちであり、また、いったいどのような勢力が(児玉郡有数の中世城館とされる)中新里城を構築することになったのかという、この地方の中世史にとっては重要ではあるものの、いまだ解明されるに至っていない問題に、文献サイドから迫ることは不可能に近いようにも思われる。というわけで、単なる走り書きと言えなくもないこの拙文がどこまで歴史の実相に迫りえているか自信はないものの、この地方におけるいまだ解明されていない問題を解くうえでのささやかな手掛かりになればと思い、本サイト上で公開することとした次第である。


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