北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  


◆太田道灌状に見える武州二宮城の所在地について

 「太田道灌書状写」(以下、「太田道灌状」と表記する)に見える大石駿河守の在城地、武州二宮城の所在地については多摩二宮(高月城)と金鑽御嶽の両説があって決着を見ていないが、傾向としては多摩二宮(高月城)説を採る方が依然として多いように見受けられる(※1)。この問題について管理人は、すでに「武州二宮城に関する私見」(※2)のなかで、金鑽御嶽説(※3)を支持する立場から自らの考えを展開したことがある。本稿では、「太田道灌状」において、武州二宮城について言及のある文明10年(1478)の記事のうち、3月から6月(※4)頃にかけての道灌の動きを追うことによって、別の角度からあらためてこの問題の考察を進めてみることにしたい。


◆武州二宮城は、上杉顕定の武蔵帰還を阻むような場所にあった◆
 太田道灌が山内上杉氏の家人、高瀬民部少輔に宛てた、文明12年のものと推定される書状(「太田道灌状」)に、次のようなくだりがある。

「修理大夫ニハ、親候入道相添、河越ニ候之処、景春令蜂起、浅羽ヘ打出、吉里ニ一勢相加、大石駿河守城地二宮ヘ著陣、小机陣ヘ致後詰、廻謀略候之処、三月十日、自河越浅羽陣ヘ差懸、追散候之間、景春者成田御陣参、千葉介相談返馬羽生峯取陣候、同十九日自小机同名圖書助一勢相添、河越ヘ越、翌日廿日向羽生陣修理大夫寄馬間、千葉介・景春不及一戰令退散、成田御陣迯参候、方々儀共如此候之間、小机城四月十一日令没落候、相州ニモ御敵城共五六ヶ所候、専金子掃部助小澤城令再興相拘候、當方分國候間、急彼等可有追散旨、雖申仁候、先當國令靜謐、速御迎以参度分、大石駿河楯籠候二宮寄陣、申宥候之間、服先忠候、」(※5)

これを見ると、太田道灌は、4月11日に小机城を没落させた後、扇谷上杉氏の分国である相州にある敵城の攻略を速やかに進めるべきであるという周囲の声を排して、まずは「當国」(武蔵国)を静謐にして(上州に逃れている関東管領の)上杉顕定をお迎えに参ることを優先したいということで、大石駿河守の立て籠もる二宮城に陣を寄せたことがわかる。武蔵の静謐を実現するためには大石駿河守を宥めて反顕定の動きを思いとどまらせることが喫緊の課題であり、そのことなしに顕定が武蔵へ帰還することは不可能であると判断したのであろう。
 道灌の「二宮寄陣」をこのように理解すると、武州二宮城の所在地が現在の八王子市高月町(あるいは、あきる野市二宮)であるとすると、道灌がそこに陣を寄せても、(上野に居る)顕定の武蔵帰還を阻む障害の除去という点ではさしたる効果はなかったように思えるから、道灌が陣を寄せた二宮城は、顕定の布陣している場所からほど遠からぬ位置にあったと解釈するのが自然なのではあるまいか。


◆「當國村山与申所ヘ寄陣」という表現に注目すると……◆
 大石駿河守を「先忠」に服させることに成功して武蔵国の静謐に一定の目途をつけた太田道灌は、次に相模国の静謐に力を注ぐことになる。太田道灌状では、先に引用した部分の続きを、次のように記している。

「二宮事如此候之間、相州磯部之城者令降参、小澤城者致自落候、雖然(※6)残党等奥三保楯籠候之間、道灌者當國村山与申所ヘ寄陣、同名圖書助・同六郎自兩國奥三保ヘ差寄候処、本間近江守・海老名左衛門尉、甲州住人加藤其外彼國境者共相語、去月十四日御方陣江寄來候処(※4)、於搦手圖書助摧手得勝利候、海老名左衛門尉討取候由、夜中村山陣ヘ告來候間、未明罷立、同十六日甲州境越、加藤要害ヘ差寄打散、為始鶴河所令放火之間、其儘相州東西静謐仕候、」(※7)

二宮城に立て籠もる大石駿河守が山内上杉氏に敵対するのを思いとどまり「先忠」に服すると、相州の磯部城(相模国高座郡)は降参し,小沢城(愛甲郡)は自落した。道灌は奥三保(津久井郡)に籠る残党退治のため、武蔵国村山まで陣を寄せ、さらには甲州境まで進軍して相州の本間氏や海老名氏、甲州の加藤氏などとの戦いを進める。これらの戦いで勝利を収め、相州の静謐も実現するわけである。
 大石駿河守を宥めて武蔵国の静謐を確保した後、相州の景春方諸将を追撃するために道灌がどのような経路で武蔵国村山に向かったのかについては、具体的に記されているわけではない。しかし、二宮城から直接、武蔵国多摩郡の村山に向かったものであると解釈すれば、二宮城の所在地が現在の八王子市高月町(あるいは、あきる野市二宮)であるとすると、次のような不具合が生じることになる。つまり、二宮城の所在地が現在の八王子市高月町(あるいは、あきる野市二宮)であったとすると、そこから武蔵村山市・瑞穂町(※8)に向かうことは、景春方の残党が立て籠もる奥三保(相模国津久井郡)から遠ざかることになり、太田道灌状に見える「當國村山与申所ヘ寄陣」という表現と矛盾する。「當國村山与申所ヘ寄陣」という表現に注目すれば、二宮城は奥三保から見ると、武蔵国村山よりも遠い場所にあって、そこから武蔵国村山に陣を寄せたと考えるべきなのではあるまいか。


◆まとめ◆
 (以上をまとめて)太田道灌状に記載されている、文明10年3月から6月頃にかけての記事から判断するかぎりでは、①上州に居る上杉顕定の武蔵への帰還を実現するため、道灌は相模よりも武蔵の静謐を優先して、(顕定の布陣地に近く)顕定武蔵帰還の障害となっている武州二宮城に陣を寄せたと考えられること、②奥三保と二宮城と武蔵の村山、この三者の位置関係と「當國村山与申所ヘ寄陣」という記述との整合性、この二点から判断して、大石駿河守の拠る武州二宮城の所在地については、多摩二宮(高月城)ではなく、上武の国境に近い金鑽御嶽である可能性が高いとみてよいのではないかと思うのである。

※1 例えば 山田邦明 『享徳の乱と太田道灌』 吉川弘文館 2015 の p.131-32 など参照
※2 拙著『神流の落日 -中世後期児玉地方史に関する試論-』 北の杜編集工房 2007 所収
※3 金鑽御嶽説は、前島康彦氏が1959年に『埼玉史談』などに発表された論考が最初のものである。前島康彦 「武蔵目代大石氏の二ノ宮城は児玉郡か」『埼玉史談』6巻4号 1959 など参照
※4「太田道灌状」に「去月十四日御方陣江寄來候処」とある「去月」が文明10年5月なのか同年6月なのか不明である。次に出てくる記事に「七月上旬比河越立」とあるので「6月」としたが、「5月」である可能性もある。
※5 「太田道灌状」 『新訂増補埼玉叢書第四巻』 国書刊行会 1971 の p.316 参照
※6 ※5の埼玉叢書本には「然」の字は記載されていないが、前島康彦 関東武士研究叢書第3巻『太田氏の研究』 名著出版 1975 の p.300 を参考にして「然」の字を補った。
※7 ※5と同じく「太田道灌状」 『新訂増補埼玉叢書第四巻』 国書刊行会 1971 の p.316-17 参照
※8 山田邦明前掲書によると、「當国村山与申所」は武蔵村山市から瑞穂町にかけての地域に比定されている(同書 p.133 参照)。また、『武蔵村山市史』では、武蔵村山市中藤の真福寺は「村山の陣」の跡であるとの伝承が伝えられている、としている(武蔵村山市史編さん委員会編 『武蔵村山市史』通史編上巻 2002 の p.604参照)。



●参考●


高月城本丸跡西面の様子

太田道灌状に見える二宮城については、その比定地を多摩二宮(高月城)とする説と埼玉県神川町にある金鑽御嶽城とする説の2つがあり、傾向としては多摩二宮(高月城)説のほうが依然として優勢です。高月城は房重、顕重、定重と続く「源左衛門尉・遠江守の系統」の大石氏の城と考えられるので、「源三郎・駿河守の系統」の大石氏の城と思われる二宮城は多摩地域とは別の場所にあった可能性が高いと、管理人は考えています。写真は高月城本丸跡の西面を撮影したものですが、本丸の下を東西に走る小道があります。その小道と本丸跡との比高は(目視で恐縮ですが)30m~40mほどしかなく、大石駿河守が立て籠もったとされる二宮城に比定するには規模が小さすぎるのではないでしょうか。



金鑽御嶽城遠望


二宮城に比定する説のあるもうひとつの城、金鑽御嶽城を、神流川頭首工から延びる幹線水路越しに撮影してみました。金鑽御嶽の比高は約160mとされています。
 金鑽御嶽城とセットとなる大石氏の城館址としては、(神流川対岸の浄法寺館などと並んで)児玉郡きっての大用水であった九郷用水の猿楽堰のほとりにある児玉郡有数の中世城館址、中新里城跡もその一つの候補地であるように思われます。中新里城跡につきましては、本サイトに収載している別稿の 《九郷用水開鑿の担い手考 -猿楽堰分岐用水と九郷落しに着目して-》を参照していただければ幸いです。



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