北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  


◆戦国時代は関東で始まった?

 呉座勇一氏が2016年に著した『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになるなど、日本の中世史に対する関心がいつになく高まっているように思われます。

◆戦国時代は関東で始まった!◆
 この「応仁の乱」については、これまで、日本列島が戦国時代に突入する画期となった戦と考えられてきましたが、最近では、このような見方に対して修正が迫られているようです。応仁・文明の乱より13年早く、享徳3年(1454)に関東で始まった「関東の大乱」によって戦国時代の幕が切って落とされ、応仁の乱はこの関東の大乱が畿内に波及して引き起こされたものであるとする見方が、中世史の研究者の間で主流になりつつあるのです(※1)。この説は、峰岸純夫氏が1963年に唱え始めたものです(※2)が、28年間も続くことになる、この関東の大乱を峰岸氏は「享徳の乱」と名付けました。

◆享徳の乱の発端と利根川を挟んでの対峙◆
 この関東の大乱は享徳3年、鎌倉公方足利成氏が関東管領の上杉憲忠を誅殺した事件をきっかけに始まり、当初は、鎌倉公方足利成氏と(室町幕府の支援を受けた)関東管領上杉氏の対立でした。序盤の戦闘では成氏方が勝利を収め、上杉方は苦戦を強いられますが、幕府の支援要請を受けた駿河守護の今川範忠が鎌倉を制圧すると、成氏は利根川左岸の下総古河に本拠地を移します。一方、上杉方は利根川右岸の武蔵五十子(現・埼玉県本庄市)に陣を設営して、両陣営が利根川を挟んで対峙することになります。

◆関東の大乱を巡る方針の対立◆
 足利成氏を討滅するという幕府の対関東政策は、将軍足利義政と管領細川勝元によって推進されますが、短期で決着させることができず、幕府と関東の対立は膠着状態に陥ります。こうしたなかで、斯波義簾や畠山義就、山名宗全らが幕府と足利成氏との和平を提起しますが、足利義政や細川勝元は一貫して不同意の態度をとります。このような義政と勝元の対応が、後に西軍として勝元らの東軍と争うことになる山名・斯波・畠山らの不満を高めることになり、応仁・文明の乱の一因を構成するに至った、と峰岸氏は指摘します(※3)。

◆長尾景春の乱と太田道灌の活躍◆
 応仁元年(1467)、京都で細川方(東軍)と山名方(西軍)の間で戦端が開かれるに至っても、関東の争乱が止むことはありませんでした。文明5年(1473)に山内上杉氏の家宰を務めていた長尾景信が亡くなった後、その後継の家宰として景信の嫡子景春ではなく、景信の弟である忠景が指名されると、景春は山内上杉氏の家督で関東管領の上杉顕定に対して反旗を翻します。文明9年正月18日、景春が五十子を襲撃すると、同所に置かれていた幕府・上杉方の陣はあっけなく崩壊し、関東管領上杉顕定を始めとする諸将は上野への退避を強いられます。 景春は足利成氏とも手を結び、また山内上杉氏の有力被官で武州二宮城に拠る大石氏や武藏東部の有力者、豊島氏と連携して反上杉勢力の結束・拡大を図ろうとしますが、太田道灌の活躍によってその動きも封じられていきます。 文明9年11月に畿内で応仁の乱が終結すると、関東でも文明10年の正月初め頃には上杉方と足利成氏方との間で和睦が成立します。幕府と成氏との和平も文明14年には成立し、ようやく関東の大乱は終息することとなります。

◆最後は拙著の宣伝ですが……◆
 長尾景春の乱において戦略的な要となる城のひとつに武州二宮城がありますが、その所在地については多摩二宮(高月城)説と金鑽御嶽説の両説があって、決着をみておりません。管理人は2007年に自費出版した『神流の落日』(北の杜編集工房)のなかで、後者を是とする立場から自らの考えを展開しております(※4)が、ご一読のうえ、ご批判、ご感想などお聞かせいただけましたら、たいへん嬉しく存じます。

※1 峰岸純夫 『享徳の乱』 講談社選書メチエ 2017 の pp.9-12 及び山田邦明編 『関東戦国全史 -関東から始まった戦国150年戦争-』 歴史新書y 2018 など参照
※2 峰岸純夫 「東国における十五世紀後半の内乱の意義」『地方史研究』66号 1963
※3 峰岸純夫 前掲書 pp.111-12 参照
※4 拙稿「武州二宮城に関する私見」(『神流の落日 -中世後期児玉地方史に関する試論-』 北の杜編集工房
  2007 所収)


《本稿は、日本校正者クラブ機関紙『いんてる』150号(2019年3月8日発行)に寄稿した文章を横組に組み直したものです》


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