北武蔵児玉地方の歴史を訪ねて | KODOSHOYO  

◎秩父と児玉、その郡界を越える道


<城峰山、不動山、陣見山そして鐘撞堂山、これらは埼玉県の北部にあって、秩父郡と児玉郡(1896年に児玉郡と統合された那珂郡を含む)の郡界を形づくっている山々である。これらの山々を結ぶ丘陵を越えて南北を往来する峠としては、出牛(じゅうし)峠、糠掃(ぬかばき)峠、間瀬峠、榎峠、大槻峠などいくつかの峠が存在したことがが知られている。これらの峠の現状は、現在ではまったく使用されなくなってしまった峠、昔と同じ峠名が残るものの自動車通行の可能な峠道が新たに切り開かれて古い峠道とは経路がかなり異なるもの、昔は秩父と児玉を結ぶ重要な交通路であったにもかかわらず今ではハイカーなどがわずかに利用するばかりになってしまった峠など、さまざまである。
 そこで、今となってはあまり顧みられることもなくなってしまったこれらの峠道のうち、部分的であるにせよ、その経路の追跡が可能な出牛峠、間瀬峠、榎峠などについて、秩父郡側からその経路をたどり、併せてそれらの経路の延長上にある児玉郡側の寺社や旧跡などの簡単な紹介を試みることにしたい>



 Ⅱ.間瀬峠を越える道

<ここでは、長瀞町の宮沢から間瀬峠を越えて、旧児玉町の八幡山へと至る道をたどってみることにします>



◆長瀞町宮沢の道路標識



秩父側の起点をどこにするかが問題となるが、とりあえず長瀞町宮沢の道路標識が設置されている地点から歩き始めることにする。

◆遍照寺入口



300mほど歩くと葛の寺、遍照寺に通じる道を左に分けるが、このまま直進する。

◆間瀬峠に通じる旧道入口



ほどなく、間瀬峠へ通じる旧道の入口が右側に見えてくる。この旧道をたどって、間瀬峠を目指すことにする。

◆大日影橋



大日影沢に架かる大日影橋である。旧道に入ってすぐのところにある。











 《ちょっと!道草》

大日影橋近くの旧道上で見つけた、ヘビイチゴの実です。〈2019年6月18日撮影〉

◆砂防用の堰堤



大日影橋から少し進んだところに設置されている、砂防用の堰堤である。

◆火打石として利用されたチャート


堰堤を左に見てさらに進んでいくと、旧道の右側にチャートが露出していた。飯野頼治氏が『山村と峠道』のなかで紹介している、「『燧石』と呼ばれる大きなチャートの岩 」である。昔の人はこの岩をかいて持ち帰り、火打石として利用したのだそうである(※)。

※飯野頼治 『山村と峠道 -山ぐに・秩父を巡る-』 エンタープライズ 1990 p.180参照

◆新間瀬峠に通じる林道に合流



旧道を登りつめると、新間瀬峠に通じる林道に出る。林道との合流点近くには、「立入禁止」のテープが張られていた。

【1年ほど前(2018年の初夏)に歩いた際には立入禁止のテープはなかったと記憶しているが、後ほど陣見山林道で出会った地元の方にお聞きしたところ、猪や鹿などを駆除するための罠が仕掛けてあるので立入禁止にしているのではないか、ということでした。テープの向こう側が、管理人が歩いてきた旧道です。新間瀬峠へは、こちら側の林道を手前方向に進むことになります】

◆馬頭観世音塔と庚申塔



林道を進むと、新間瀬峠脇に置かれた馬頭観世音塔と庚申塔の前に出た。向かって左の庚申塔には「文政十一年戊子二月吉日 野上下郷辻林氏」、右の馬頭観世音塔には「天保二年辛卯三月吉日 願主林幸右エ門」の銘がそれぞれ残されている。









 下の写真は、車が通れように新たに開かれた県道287号線(長瀞児玉線)の間瀬峠を北側から撮影したものである。新間瀬峠の開削にともない、旧峠にあった馬頭観世音塔と庚申塔は峠付近の目立たない場所(上の写真参照)に移設されることになった(※)。

※飯野頼治 『山村と峠道 -山ぐに・秩父を巡る-』 エンタープライズ 1990 p.180-81参照

◆陣見山林道脇から第二間瀬湖を望む



飯野頼治氏の『山村と峠道』には、林道陣見山線が県道287号線(長瀞児玉線)から分かれる地点付近に、旧児玉町側に下る旧峠道がわずかに残っていると記されているが、間瀬峠に何度か通って探してみたが見つけることができなかった。そこで、残念ではあるが林道陣見山線を北東に進んで北武蔵ハイキングコースに入り、第二間瀬湖脇に出ることにする。

【写真は、2019年4月5日、陣見山林道沿いにある林に少し分け入って、第二間瀬湖を撮影したものです】

◆間瀬湖への案内標識



間瀬湖への下山路を示す案内標識である。ここから北武蔵ハイキングコースに入り、第二間瀬湖脇に設置されたハイキングコース入口の標識まで下ることになる。











 《道草その2》

北武蔵ハイキングコースを下って間瀬湖に向かう途中、東京電力の管理する新岡部線の鉄塔付近にコアジサイ(小紫陽花)が咲いていました(2019年6月18日撮影)。

◆第二間瀬湖脇の標識



第二間瀬湖脇を走る県道287号線との合流地点に設置された、北武蔵ハイキングコースの案内標識である。ここからは、287号線を歩いて間瀬湖に向かうことになる。

◆間瀬湖



ヘラブナ釣りの名所として知られる間瀬湖。間瀬湖とその堤体が織りなす景観は、昭和32年に『週刊読売』が一般公募し、その得票数によって選定した「新日本百景」、および昭和59年に埼玉新聞社が選定した「ふるさと埼玉百選」にそれぞれ選出されている。

◆間瀬湖の堰堤



東日本に現存する農業用重力式コンクリートダムとしては、最古のものであるとされる間瀬堰堤。昭和12年(1937)の竣工で、平成12年(2000)には文化庁の登録有形文化財に指定されている。

◆堰堤管理橋



間瀬堤体と一体のものとして設置されたこの管理橋も、平成12年(2000)に文化庁の登録有形文化財に指定された。











管理橋に付けられている、文化財登録の表示板である。

◆日本神社


間瀬堰堤から県道287号線を800mほど児玉の市街地方向に進むと、日本神社の参道入口が見えてくる。「神山」と呼ばれた、身馴川(小山川)右岸の小高い山の上に鎮座する当社は、境内に掲げられた由緒書きによると、延暦十年(791)、坂上田村麻呂が東征の折に立ち寄って戦勝を祈願したという伝承をもつ神社である。当初は神武神社と呼ばれたが、明治七年に西小平地区にある稲荷神社、桜木神社、黒石神社、駒形神社など六社を合祀し、明治十四年に社名を日本神社と改めたという。社名にちなんで、サッカー日本代表チームなどナショナルチームのメンバーやサポーターの参拝があるというような話も聞く。

◆西小平の石造物群


県道287号線沿いにさらに150mほど進むと、巳待塔や馬頭観世音塔、石仏などが建ち並ぶ石造物群の前に出る。後列には巳待塔(3基)、馬頭観世音塔(3基)、庚申塔(2基)などが配されており、「摩利支」と刻まれた塔もある。紀年銘が判読できるものは少ないが、右から3つ目の庚申塔には「文久二」の銘が残されている。前列には7基の石仏が並んでいるが、その多くは念仏供養のために建てられたもののようである。右から4つ目の石仏には「元禄十六年」、その右の赤いよだれかけが掛けられたいちばん大きな石仏には「安永二」、その右の石仏には「安永八」の記銘が残されている。

◆東小平の道標



県道287号線を小平川を越えてさらに東進すると、「百観世音道」との合流点に至る。向こう側の道が「百観世音道」で、百体観音の前を通り榎峠を越えると、長瀞町小坂に出ることができる。









◆小平・風洞境の石造物群



前掲の道標設置地点から、さらに県道287号線を50mほど東に進んだ地点、県道の左側に残る石造物群である。いちばん右は庚申塔で(庚申の年ではないので判読に誤りがあるのかもしれないが)「寛政八」の銘が残る。右から2つ目は百万遍供養塔。3つ目は馬頭観世音塔の残欠ではないかと思われるが、「文化十四丁丑」の銘あり。いちばん左は「文化」の年号が刻まれた馬頭観世音塔である。

◆龍光山普賢寺



県道287号線を東に進んで風洞地区に入ると、左側に龍光山普賢寺が見えてくる。真言宗豊山派の寺院である。近世においては、小平村成身院の末寺であった。











こちらは、普賢寺門前から県道287号線を南に渡ったところに建つ石造物群である。向かっていちばん左は百万遍供養塔で、二番目後方の笠のある石造物には「延享二」の紀年銘が残る。真ん中の石仏は念仏供養のために建てられたもの。いちばん右とその後方に見える石造物は庚申塔で、それぞれ「元文五」「安政七」の銘が刻まれている。

◆飯玉神社



風洞から秋平橋を渡った先の、身馴川(小山川)左岸に鎮座する神社。境内に掲げられた由緒書きによると、当社付近から二階造家型埴輪が出土しているそうである。

◆大光山円通寺と金屋戦争死者供養塔



当寺も真言宗豊山派の寺院で、近世においては小平村成身院の末寺であった。明治十七年十一月の秩父事件の際には、大野苗吉らに率いられて出牛峠を越え、太駄から八幡山方面に押し出してきた困民党の一隊と、高崎から繰り出してきた鎮台兵との間で、十一月四日の夜半、金屋において激しい戦闘が展開されたという。








円通寺はこの戦闘で死傷者を収容する野戦病院の役割を果たすことになったこともあって、墓地の南側の一角に金屋戦争死者の供養塔が建てられている。

◆≪道草その3≫ 新町の屋台



風洞から八幡山にかけての地域を歩き回っていたこの日(2019年11月3日)は、「こだま秋まつり」(白鳩峯東石清水八幡神社例大祭)の日でした。実相寺の向かいにある新町会館の前を通りかかると、お祭りを盛り上げる3台の山車と1台の屋台のうちの一つ、新町の屋台が国道上にその絢爛豪華な姿を見せていました。(正午を少し回った時刻だったので、曳き手や囃子手の皆さんは、新町会館の中で昼食を摂っていたようです。)古道歩きの記事として屋台の写真を載せるのは変則かもしれませんが、息抜きとしてご覧ください。

◆歓喜山実相寺



『武藏國兒玉郡誌』によると、浄土宗鎮西派の寺院で、延徳二年(1490)に夏目定基によって当地に創建された。開山は安誉養信。











こちらは、本堂右側の松の陰に建つ板碑。二条線の下に、阿弥陀如来を示す梵字一字と蓮座を配した形式で、阿弥陀一尊種子板碑と呼ばれる。文永二年(1265)の造立である。ただ、実相寺の境内に設置されている石碑「有縁無縁諸精霊位之塔」では、本堂が現在地に建立されたのは延徳二年(1490)十月十五日であるとしている。板碑の造立時期と本堂の建立時期を考慮すると、この阿弥陀一尊種子板碑は(実相寺の旧所在地とされる)生野に建てられたもので、本堂の建立に伴って生野から現在地に移設された可能性があるのではあるまいか。

◆雉岡城跡

埼玉県が設置した説明板によると、雉岡城は八幡山城とも呼ばれ、戦国時代に山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭いので山内上杉氏は上州平井城に移り、家臣の夏目豊後守定基を当城に置いて守備させた。永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形北条の属城となったが、天正18年(1590)に豊臣方小田原攻めの際に前田利家に攻囲され落城した。天正18年8月の徳川氏関東入国後、松平家清が1万石の格式を受けて領主となり居城としたが、慶長6年(1601)三河国吉田城に転封されるに及び廃城となった、という。

 以上は、『新編武蔵風土記稿』所載の記事に沿った説明と思われるが、山内上杉氏が雉岡城を居城とした確証はなく、雉岡城の築城を実際に進めたのは夏目定基である可能性が高いのではあるまいか。
 児玉にある実相寺は、延徳二年(1490)に定基が市街地東方にある生野の地より現在地に移転(※1)、東福院も延徳三年に定基が建立(※2)したと伝えられていること、また、旧児玉町連雀町にある東石清水八幡宮の西北に位置する雉岡山玉蔵寺も、山内上杉氏による雉岡築城の際に家臣有田(夏目)定基に命じて霊場を現在地に移したとされている(※3)ことなどから判断すると、雉岡城下の町割りとその整備にあたったのは定基であるように思われるのである。

 雉岡築城以前の状況はどうかと言えば、昭和48年に本郭付近を崩して児玉中学校の体育館を建設した際に、大量の五輪塔が出土している。立塔だけでも44基を数えるなかで、紀年銘の刻まれているものが8基ほどあり、最も古いものには応永二年(1395)の刻銘があるという(※4)。これより、雉岡築城以前に「雉が岡」に墓地や寺院が存在したと考えられるが、寺院だけでなく、しかるべき武士の館も存在したと考えて大過ないのではあるまいか。

※1 児玉町史編さん委員会編 『児玉町の中世石造物』 1988 p.15参照 
※2 小暮秀夫編 『武藏國兒玉郡誌』 1927(名著出版 1973復刻) p.412参照
※3 玉蔵寺門前に掲げられた説明板に拠る。
※4 児玉町史編さん委員会編 『児玉町の中世石造物』 1988 pp.18-19参照




 

雉岡城の二の郭や三の郭は削平されて、現在は児玉中学校や児玉高校の敷地となっているが、城跡の一部が城山公園として公園化されており、水堀なども残されている(左の写真参照)。


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